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日本の小さな通り

研究テーマ:建築設計論

Prefectural University of Kumamoto  

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TAKAHASHI  Laboratory

建築デザイン論

「ものを創る」

「ものを創る」という姿勢

「ものを創る」という姿勢として、大きく二つある。

一つは、自分の価値観、思想、信念にしたがい、自分自身がいいと思うものを創造しようとする場合。いわゆる芸術家と言われる人たちがこれに当たる。世間に認められれば、いわゆる成功者と見做されるが、その数は悲しいほど少ない。ただ芸術家にとっては、世間の評価はあまり関係ないと考える人も少なくない。

もう一つは、社会的価値観、ニーズのなかでの立ち位置を考え、「ものを造る」という姿勢。世の中の多くの職業は、こちらに属する。

一流と二流

「プロ(プロフェッショナル)」とは生み出したもの・ことに対して対価(お金)を受取る人たちで、当然ながら人により対価に差が付く。

一流と二流の違いに関して、この対価の多寡で評価されることがあるが、それは結果であって本質ではない。

ものを創る現場でも、時に予期せぬようないい作品ができることがある。そうすると自分は一流になったと勘違いする。ただ残念ながらこれは決して一流ではなく二流を脱却していない。

 

本当の一流は継続して、ハイレベルの力を毎回発揮できる。

優れたプロ(一流)とは、継続して自分の表現をしていける人のことである。

一流は、自分の気分や調子に左右されない。そのための準備を怠らない。

 

また視点を変えると、二流は失敗を恐れ新たなことにチャレンジしようとしない。結果失敗は少ない。そして失敗してもそれを認めず改善しない。

一流は、新たなことに果敢にチャレンジを繰り返し、より多くの失敗や困難を経験しながらそれをリカバリーし、いい作品へと繋げることを継続している者を指す。

 

失敗を素直に認め、自ら改善点を見出し次へ繋げる。自らの弱点を認識し、改善へ繋げるのが一流。

自らの弱点に目を背け、美辞麗句を重ね、自分を取り繕うのが二流。

作品

デザインの目的は、「誰かを幸福にすること」と考えているが、他人に喜んでもらうことだけを考えているのではない。

文面にすると誤解が生じそうだが、他者を喜ばす前に、自分が納得いくものでないとうまくいかない。

自分がいいと思えないもの、顧客のニーズだけを適えたもので、本当に喜ばれた(感動された)経験が無い。かと言って、社会性や顧客のニーズを蔑ろにしていい作品ができるはずもない。

このバランスが非常に難しい。

しかしあくまで、自分の感性を基本に考えることだ。

感性

「感性」とは、『物事を心に深く感じ取る働き』や『外界からの刺激を受け止める感覚的能力』という意味で用いられる。

 

この「感性」を自分なりに掘り下げてみると、その人の個人的な「人間性」に大きく依存しているように思う。これはその人の「バックボーン」とも言い換えられるであろう。思想・価値観・経験・行動など、その人の人となりが豊かなで繊細な「感性」を涵養する。

ただ言葉は嘘をつく。いくら美辞麗句を並べても、実際の行動が伴わないと、本当の思想や価値観はわからない。

本当の意味での豊かなで繊細な感性は、ものを創ることにおいて非常に重要な特性であり、そのクリエイターの拠り所ともなる。

感性と論理

「ものを創る」場合、論理的思考と感性に導かれた「ひらめき」が必要である。

論理的思考には機能性、社会性、経済性、安全性、耐久性などの知見が知られており、デザイン手法のフォーマットやチェックリストが存在し、過去の成功例などの解説書、ディテール集等も多い。これらをもとに「ものを造る」ならば、あるレベルに達する(失敗しない)ものはさほど苦も無くできるということになる。

ただこれは「ものを造る」ことであって「ものを創る」ことではない。

「ものを創る」とは論理的思考の先に、次元を超越するような「ひらめき」を必要とする。

歴史に名を遺す天才たちが「理屈」で作品を生み出しただろうか。

ピカソやモネが「理屈」で絵を描いただろうか。

もちろん論理的思考無しには、この「ひらめき」も生まれない。

地道な修練と研鑽の先にこの「ひらめき」の瞬間が訪れる。それは場所や時間を選ばない。トイレの中や入浴中、寝る寸前など様々だ。この瞬間までが実に苦しく葛藤の日々が続く。まさに七転八倒、先の見えない暗闇を戦い抜いた者にのみ訪れる歓喜の瞬間である。

こうして創られたものには、「感動」が宿る。

感性を信じる

「創りたいもの」というのは、最初から全貌がしっかり見えているわけではない。

 

「感覚は欺かない。判断が欺くのだ(ゲーテ)」の言葉通り、

自分の感性を信じていい。

感性を磨く

感性がものを創ることに大きく影響し、その結果感動を生み出すことに繋がると考えると、クリエイターにとって感性を磨くことは非常に重要なことと言える。

またこの感性がその人の個人的な「人間性」に大きく依存していると考えると感性を磨く方法は人間性を磨くことだとも言える。

デザインの目的が「誰かを幸福にすること」。デザインの本質が「配慮」であると考えると、やさしさや配慮の心を持ち行動し、なおその行為をひけらかさないことは、美しい感性を磨くことにも繋がる。

 

このような姿勢を「陰徳」と言い、その人間に品格を纏わせる。

​「デザイン」

​「デザイン」の理念

デザインは人間の為にある。

​「デザイン」の目的

デザインの目的は、「誰かを幸福にすること」

​「デザイン」に関する誤解

「奇抜な形」「派手な色」「煌びやかで多彩な装飾」を指し、「デザイン」と称されることがある。

これは、デザインにおいて光の当たる一部分しか見ておらず、デザインの本質が見えていないことによる誤解である。

​​

本来「デザイン」とは、作者(クリエーター)の「配慮」が形や色、材質などのもの・ことに表出したものを指し、これを「デザイン」と呼ぶ。

​​

もちろん現実社会において「奇抜な形」「派手な色」「煌びやかで多彩な装飾」が必要なものも存在し、一定の需要もある。

ただこれらは、「象徴性」や「独自性」は示すことができるが、そこに他者への「配慮」がない場合、作者の自己満足や自己主張だけの独りよがりに終わってしまう可能性が大きく、周りを不幸にしてしまう。

​「デザイン」の本質

デザインの目的が、「誰かを幸福にすること」である以上、「デザインの本質」には、他者への「配慮」や「やさしさ」が必要であり、これが無いと「誰かを幸福にすること」はできない。

​​

その意味で言うと、デザインの本質は「配慮」であると言える。

この「配慮」には、例えば『(家具などの)体に触れる部分に丸みをつける (使用時痛くないように)』とか『仕上げ塗料はできるだけ、人や地球に優しいものを使う』など、「奇抜な形」や「派手な色」「煌びやかで多彩な装飾」などは重要ではない。

​​

この作者自身が考える他者への「配慮」が形や色、材質などのもの・ことに表出したものこそが、本来の「デザイン」であると考える

​「デザイン」の表と裏

デザインには、「表」と「裏」がある。

​​

デザインの「表」は、「新規性」や「創造性」といった、いわゆる「煌びやかな」一面。この「新規性」「創造性」は、人々を魅了し、 新たな時代の方向性を示すといった大きな力を持っている。

ただこのデザインの「表」は諸刃の剣であって、煌びやかな一面だけに囚われ自己主張・自己満足に終始し、人を幸福にできない作者や作品が少なからず存在する。

​​

一方デザインの「裏」とは、先程からデザインの本質が「配慮」であると述べたが、これこそがデザインの「裏」と言える。

​​

この「表」の「新規性」「創造性」と「裏」の「配慮」「やさしさ」が「表裏一体」になったものこそ、「真のデザイン」と呼べる。

「創造性」

デザインの煌びやかな「表」の部分を担う「創造性」。

この「創造性」は、人々を感嘆させ、感動を呼び起こす大きな力を持つ。

デザイン学の分野では、「〇〇メソッド」や「ブレインストーミング」など、いくつかの「デザイン手法」なるものが開発されているが、残念ながらこれらの手法を用いて画期的な「創造性」のあるもの・ことが生み出されたと聞いたことがない。

そもそも、「創造性」を論理的に説明したり、「論理的創造手法」なるものができるのだろうか。

先のデザイン手法で生み出されたもの・ことは、いわゆる「論理的に説明できる」もの・ことでしかなく、人々の納得を得やすいが、人々を感動させたり、魅了するようなものではない。

何故か。

そもそもこれらの手法は、「論理的に説明できる解答」を導くための手法であって、ここで言うデザインの煌びやかな「表」の部分を担うような「創造性」を生み出す魔法の手法では決してない。これらの手法によって生み出されたもの・ことは、当然ながら人々の感嘆や感動を生み出すことは極めて少ない。ここで得られるのは最大公約数的「納得」である。

デザイン行為における思考過程の研究等はこれまで複数報告があり、例えば思考過程の途中で作者が何を考えていたのかを聞き、言語化抽出し、テキストマイニング等により分析し、その結果をデザイン手法の確立に流用できないかとの研究も見られるが、デザインを実践し、研究する立場で言えば、しっくりこない。

​私の経験ではあるが、あるデザインを行う場合、それこそ一日中思考し、夢の中にまで出てくることがある。当然、日常生活や事務、雑事などの業務も通常通り行うが、意識としては頭の隅っこに常にデザインを思考する回路が働きながら、並行して日常業務を行うといった感覚で、この過程で様々な検討・検証を繰り返し、案を洗練していく感覚と言える。このような頭の中を整理するために何枚も何枚もエスキスを行い、検証を重ねる。

​これらの過程は、繰り返し繰り返し検証を重ねる点において、多くの研究やデザイン手法の過程上の行為とも重なるが、経験上、これらの繰り返される検証だけでは人々を感動へ導く「創造性」とは言えない。すなわち、様々な検証(論理的思考)だけでは、最大公約数的納得しか得られない。

ではどうするか。

繰り返し繰り返し検証を重ねる事は当然必要だが、その後いつとはなく、いわゆる「神が降りてきた」というこれまでとは全く「次元が異なる」ようなもの・ことが生み出される時がままある。これは論理的に積み上げたものでは決してなく、どうやって出てきたものかも自覚できない。

この「次元が異なる(次元を超える)」ことこそが「創造性」であると確信している。すなわち、「デザイン」における「創造性」には、ある時に「次元の超越」が必要だと言える。​​

デザインを「研究」する身で「論理的」に語れないのは心苦しいが、「創造性」は決して「論理的」ではなく、論理的思考の先にあるものでもない。むしろ論理的思考とは異なる次元のもので、すなわち「創造性」には「次元の超越」が必要なのだ。そしてこれらを生み出す部分はおそらく論理的思考ではなく、​「感・感性・感覚」といった目に見えにくい、説明に苦慮するような人間の根源的な「人間性」とでも言えるものに起因するように考えている。

人それぞれ「感・感性・感覚」は異なる。

これも経験談で心苦しいが、大学教員として学生たちと日々接していると、この「感・感性・感性」は、「配慮」「やさしさ」「繊細さ」と関係性が高いようだ。

配慮ややさしさに無頓着な人は往々にしてここで言うデザインが苦手のようだ。

もし表面的には、できたように見えても、それは独りよがり(自己満足)に終始し、他者を喜ばすことができない。逆に、奇抜な形など無いが、住み手の生活に配慮されたプランニングを行う人の方が、ここで言うデザインが優れていると言える。この根拠となる具体的データは持ち合わせていないが、おそらく間違いない。

デザインの目的は、「誰かを幸福にすること」である。

デザインは決して「自己主張」や「自己満足」だけではいけない。これは「趣味」と同じで自分しか楽しくない(周りにとっては迷惑?)。DIYと同じだ。

 

ここで言う「デザイン」の「創造性」は、日々の生活において「配慮」や「やさしさ」「繊細さ」を磨くことでこそ、真の「デザイン」真の「創造性」に近づくであろう。

​これは、おそらく間違いない。

​「建築」

建築

「建築」とは、建築物(建物)をつくる人間の行為、あるいはその行為によってつくり出された建築物を指す。

しかし、ただ単に「箱」を造ることを指すものでもない。そこには当然ながら人間の営みが内包されるため、私たち人間が空間をどのように認知し、どのようなふるまいをするかを考えなくてはならない。

すなわち「建築」は私たち人間のためにある。私たち人間が、幸福で豊かな時間を過ごすための空間を創造すること「建築」と呼ぶ。

更に言えば「建築」とは「未来を創造する」ことでもある。

一方で「建築」は、少なからず地球を改変し、傷つけてしまう。この現実を直視し理解すれば、建築の見え方・考え方が違ってくる。「この建築は(地球を傷つけてまで)必要なのか?」「この建築で誰かを幸福にできるのか?(誰かを不幸にしていないか?)」

この二つの問いを常に自問自答する必要がある。

建築における芸術性

紀元前1世紀頃の建築家ヴィトルヴィウスの著書『建築十書』によれば、建築の理念として「用・強・美」が記されていた。

中世ヨーロッパでは、「建築は芸術の母胎」と考えられ、ジョン・ラスキンは 建築において「審美性」を伴うものを「Architecture」、伴わないものを「Building」と定義した。

 

古代より建築には「美(審美性)」が必要であると考えられてきたが、21世紀の 今日、「用・強・美」の理念は、「用・強・金(経済性)」となり果てた建築であふれ、ラスキンのいう「Building」に満ちた世界が形成されている。

「建築(Architecture)」 に求められる「審美性(美)・創造性・独創性」を「芸術性」と呼ぶならば、「建築(Architecture)」 に芸術性は絶対的に必要と言える。

むしろこの建築(Architecture)」における芸術性こそが、建築の「Architecture」たる所以とも言える。

しかし建築は、人間の営みを内包するため、機能性が必要であり、その意味で機能性を有しないような純粋芸術とは全く異なる。

したがって「建築(Architecture)」とは、機能性や社会性、経済性、安全性、耐久性などの建築における必須条件を適えた上で、審美性(美)や創造性などの芸術性を併せもつものを言う。

建築の創造

建築の創造には、数十人、数百人以上の人たちが関り、創り上げていく。建築家やデザイナーだけでは決して建築の創造は完結しない。

創造の現場を見れば、生み出される作品の質が分かる。上質な作品ができる現場は必ずと言って良いほど整理整頓されきれいだ。無造作に置かれた材料などもちゃんと配慮の上でその場にある。

逆に煩雑な現場からは上質な作品は生まれないと言ってもいい。そんな都合の良い現場、作品は無い。

 

レベルは低いほうに揃う。

クリエーターは常に自分自身の整備を怠らないよう強靭な精神力が必要だ。

未来

私たちは紛れもなく「現在(いま)」を生きている。


「未来」とは、まだ訪れていない「現在」だと言える。ただ「未来」は「現在」ではない。「未来」は、「現在」と違う世界になるはずだ。もし10 年後、世界が現在と全く変わっていなければ、それは未来ではなく、未来は10 年以上先にならないとやってこないことになる。「未来」は必ず「現在」とは違う。「未来」は「現在」の世界が元になっている。「現在」の我々が、どう考え、どう行動するかで「未来」は決まる。 「未来」は、誰にもわからない。


どれほどの高性能の電算機で計算したとて、80億の多種多様な人間の活動とその他すべての生き物たちの営みや地球の鼓動すべてを読み切れるはずもない。ましてや地球外の宇宙の影響を考慮するなど、気が遠くなる。昨今見られる未来予測の多くは、必ずと言っていいほど当たらない。そもそも当たるはずがない。
これら未来予想の多くは、過去の膨大なデータを元にして未来を計算しているため、人類の進歩や発達などの大きな方向性や流れのふるまいはある程度予想できても、個々の事象は到底予想できない。


「バタフライ・エフェクト」:非常に小さな出来事が、最終的に予想もしていなかったような大きな出来事につながることを意味する言葉であるが、まさに未来に何が起こるかなど、予想できない。

 

また、『菜根譚』にこうある。禍不可避:禍(わざわい)は避けようとしても、避けられるものではない。様々な不確実な事象を予想できるはずもない。未来は必ず現在とは違う。


私が明日どうなるのか、誰にもわかるはずがない。例えいつもの時間に家を出て、いつものような同じルートで会社へ向おうと、過去と全く同じことなどないはずだ。80億の人間が過去と全く同じふるまいをするはずもなく、地球も常に動いている。


未来は、現在創られている。現在の行動が未来を創っている。


建築は未来を創造している。


私は建築の力を信じている。

​「製図」と「設計」と「デザイン」の大きな違い

​製図

決められた製図法(JIS)によって万人に共通する解釈が可能な「正しい図面(平面図、立面図、断面図等)を描く」こと

(※【建築製図通則(JIS A 0150)】が規定され、図面、文字、尺度、寸法及びサイズの単位、 線などに関する決まりごとがある)

​設計

製作・工事などに当たり、工費・敷地・材料および構造上の諸点などの計画を立て図面その他の方式で明示すること(広辞苑第6版)

​建築設計

建築物の用途に応じてその機能、形態、構造、法遵守、設備(+構法、材料、費用、工期、街並景観、環境共生、エネルギー問題…)などを総合的に決定し、工事実施(建築空間の具現化)のために必要な図面(パースや模型等を含む)及び仕様書等を作成する業務​(建築関係辞書等より)

建築物の用途に応じて、あらゆる要因(機能、形態、構造、法遵守、設備、構法、材料、費用、工期、街並景観、環境共生、エネルギー問題…)などを総合的に決定し、建築空間の具現化のために必要な図面(パースや模型等含む)及び仕様書等を作成する業務

重要なのは、「あらゆる要因の検討」と「建築空間の具現化のため」である

あらゆる要因の検討には「情報収集力」「分析力」「課題発見力」が求められ、更に設計者自身の社会性や価値観が問われる

※何の要因(機能性?、経済性?社会性?環境問題?)を増幅し、何の要因を減衰させるかは、様々なシチュエーション(状況、場面、立場、境遇、状態、事態)によってその都度変化し、その判断は一人一人違うため一般化されたマニュアルなど無い。

だから難しい。だから「建築設計」は難しい。「設計製図」とは違う。

(※これは実社会における様々な「問題」と「その解決に対する考え方や配慮」などとまったく同じ)​

(※ただしその時代ごとの時流や社会風潮の影響を反映した要因は、おのずと増幅せざるを得ない傾向があり、今日で言えば「環境共生」や「エネルギー問題」などは、少なからず重要視される傾向にある)

 

実社会での建築設計は「法規制」「コスト(利益至上主義)」「工期」「様々なしがらみ(人間関係)」etc.によってがんじがらめ(必要な要件を適えるだけ)

それでもニーズを適えるという意味では最低条件をクリアしたと言えるが、何か問題が発生した時(社会において問題が発生しないことなどない!!)に対応できない。(マニュアルに無いものは考えられないという思考停止に陥る)

この場合の打開策は、「創造性」以外にない。多角的な視点・自由な発想・妄想こそが唯一の手掛かり

 

ニーズだけ叶えて生み出される建築には「感動」が無い。(ニーズの中に「幸福」は無い)

​設計製図

限定的条件下での「設計」を目指すが、あくまでの「製図」の範疇を出ない。

(※建築士免許の製図試験に対して呼ぶ名称)

「あらゆる要因の検討」は行わず「建築空間の具現化のため」でもない。すなわち「製図」をより「設計」に近い形で、「製図」のスキルを問うもの。

大学等における高等教育で実施される「製図実習」「デザイン実習」「卒業設計」等もこれにあたる

​デザイン

「デザイン」とは『デザインは設計』あるいは『デザインは問題解決』などと多様な意味を持つ

広義のデザイン:「目標(目的)」を達成させる ための「計画(設計)」をすること

狭義のデザイン:「計画(設計)」した事に基づいて、 具体的な「カタチ」を作ること

​新たな視点で、これまでにない「もの・こと」を為す(創造する)。

日本語においては「審美的な要素を含む 計画的行為の全般を指すもの」

 

ここでいう「デザイン」とは、「創造」を意味する

(またこの「デザイン」は、建築の分野に軸足を置き、家具、インテリア、プロダクト、サインから建築、街、都市までの「創造」を内包する)

建築デザイン

= 建築設計 + 審美性 + 創造性 = 感動

​「建築家」と「設計者」と「建築士」

建築を設計・デザインするということは人の人生に大きく関わるということです。建築とは単なる箱を造るのではありません。建築によって人は安心感や癒し、心の拠り所を得ることができ「幸福」になることができます。一方、手抜き工事や構造計算数値の改ざんなどによって、地震時に建物が倒壊したりして、不幸にも人の命を奪うことも起こり得ます。このような人の人生を左右するような仕事であるため、建築の設計・デザインには国家試験(建築史免許)が必要なのです。誰でも簡単にできるわけでもありません。ただし、人を幸せにもできる素晴らしい職業でもあります。

建築士

国家資格を取得し、実空間を具現化するための図面等を作成し、それを生業とすることが可能。「建築設計」を行うための基礎知識や限定的条件・要因などの「設計製図」のスキルを習得し、免許を取得した人。

「免許」を持っているだけでは、まだ「設計者」とは言えない。

設計者

「建築設計」としてあらゆる要因を検討し、建築空間の具現化のための図面等を作成することを生業とした人。生計を立てることも非常に重要。

(※生計を立てられるということは、世間から「設計者」として認知されていることを示す)

​建築家

「設計者」の中でも「創造」を継続して成し得ている人

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