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Prefectural University of Kumamoto
TAKAHASHI Lab.

研究テーマ:茶室空間の研究
Prefectural University of Kumamoto

TAKAHASHI Laboratory

茶室空間の研究
私ははこれまで、「デザイナー」として空間創造の立ち位置から、日本人の空間に関する美意識の 傾向やその特徴の研究を行ってきました。
日本の特徴的美意識とされる「わびさび」や「幽玄」「もののあわれ」。
これらの美意識を体現した空間として、茶室建築が挙げられます。
このような日本的美意識を凝縮した茶室空間は、歴史を辿ると、千利休が大成させた「侘び茶」の 空間「草庵茶室」 に行きつきます。
利休が活躍した安土桃山期から、その弟子らによって継承された江戸初・中期にかけて建設された 草庵茶室の多くは、現在国宝あるいは重要文化財に指定され、主に京都を中心に現存していますが、残念ながらこれら近世前半期の「草庵茶室」は、九州地方には現存しません。
ただ博多(福岡) においては、戦国時代末期に活躍した博多の豪商、神屋宗湛の作とされる国宝茶室「湛浩庵」がありましたが、先の大戦末期の1945 年の福岡大空襲で焼失してしまいました。
宗湛は利休との親交も知られ、「湛浩庵」は九州地域(博多) における侘び茶文化全盛時の伝承・伝播の証とも言える歴史的文化財でありましたが、このような先人の貴重な文化遺産を失くしたことは非常に残念としか言えません。
現在、九州地域に残る著名な茶室は、主に近代(明治期) 以降建設のものが登録・指定有形文化財として継承され、そのなかでも著名な茶室建築として「鉄牛庵:福岡県直方市」「香風亭:福岡県福岡市」「閑雲亭:長崎県平戸市」「心田庵茶室:長崎県長崎市」「隔林亭:佐賀県佐賀市」「仰松軒:熊本県熊本市」「玉里邸茶室:鹿児島県鹿児島市」などが知られています。
この現状は、「湛浩庵」のあった博多を除き、九州地域における侘び茶の空間「草庵茶室」の普及と継承が、近世(江戸期) に一旦途絶えた、あるいは普及と継承がなされなかった可能性を示唆することとも考えられますが、この件に関しては既往の研究も見い出せず、今後詳細な検証が必要と言えます。
茶室の歴史(空間的視点から)
日本建築における建築史学の研究は、幕末から明治期にかけて始まりました。
昭和初期、日本独自の伝的遺構を再評価しようとする動きが高まり、村野藤吾、吉田五十八、堀口
捨己、谷口吉郎らに代表される近代建築家たちは茶室を再評価しました。
彼らは伝統としての茶室に現代的価値を見出し、その中でも近代における茶室論の思想的基盤を形成した先駆的な建築家として、堀口が知られています2)。
また太田、中村ら1)は、茶室史の総体を編纂し利休風から武家風、貴族風などの歴史的発展の変遷および各作風の茶室の特徴をまとめています。
更に船越ら3)は、茶室空間が日本建築の伝統の中で、空間としてどう位置づけられるのかという視点で捉え、各時代の茶室空間の特徴を歴史的位置づけを行っています。
また中村4)は、草庵茶室から書院茶室への意匠的変遷を、時系列で整理し、各年代の茶匠の工夫と創意をまとめたものがあります。
これらの既往研究では、主に茶匠の作風・好み、師弟関係等で語られ、図1に示すような茶匠の師弟
関係が一般的に知られています。
そこで私は、茶室を「空間」という視点で見つめ直し、建築史学における主要な「茶室空間」の変遷を以下に整理します。
まず栄西禅師(1141-1215) に始まるとされる、いわゆる喫茶の文化だが、鎌倉時代には禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透し、南北朝時代には、茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び「闘茶」が行われました3)。
この喫茶が行われた場を空間の視点から見てみると、鎌倉期の禅宗寺院における喫茶(禅院茶礼) は、
「方丈」などで行われていたと考えられますが、鎌倉末期に武士の社交の場として「会所」での茶が流行します。
初期の「会所」とよばれた空間は建物の一部であったり、常御所や泉殿と兼用でもありました。
しかし室町時代には独立したものも増え、特定の建物に「会所」の名が付けられました。
更に室町末期には、8代将軍足利義政の側近、能阿弥と孫の相阿弥が完成させたとされる「書院」の茶が現れ、その後安土桃山時代には、村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、千利休(1522-1591) からなる「侘び茶」が完成し、「草庵」の茶、すなわち草庵茶室へと繋がります。
ちなみに「禅院茶礼」「会所」の茶までは、多くの場合、喫茶と点茶の場を異にする茶礼でしたが、「書院」の茶「草庵」の茶では、喫茶と点茶の場を同一にする茶礼へと変化します3)。
「侘び茶」における茶室の空間は、珠光の頃は六畳敷でしたが、紹鴎が四畳半とし、しかも床の間は必ず間口一間の広さを持ち、框は必ず黒く塗った塗框で床は必ず唐物や名物を飾る場所とされていました。そして、名物を持っていない人は床なしの茶室で良い、床をつけてはいけないとしました。
すなわちこの時期茶室空間は「唐物持」と言われる舶来の唐物を所持している人(お金持ち)が使う空間でした。
しかし後に利休は、床の中も土壁を塗り、床の両隅の柱を消してしまう室床なるものを創造しました4)。
また紹鴎は、茶室空間の雰囲気を造り出す要素として、明るさの加減の大切さを説き、明るすぎることを否定しましたが、それに倣い利休は、小さな窓によって茶室の中の明るさを整えるという構造に
するために、茶室の壁面全部を土壁で囲ってしまい、それに点々と窓をあけるという構造に変えました。それ以前の、珠光、紹鴎の頃は、張付壁、つまり紙張りの壁であったらようです4)。
利休は「待庵」にて二畳隅炉に室床の床の間を付けた極小空間を創造しましたが、更に聚楽屋敷に一畳半(正確には一畳台目)の茶室を造り、侘びの究極を模索したとされます。
「侘び茶」の空間は利休によって完成されたと見てよいでしょう4)。
利休後の茶室空間は、利休七哲と呼ばれる武将の弟子たちによって多様な展開を見せます。
特に古田織部(1544-1615、利休の弟子、徳川将軍家の茶道指南)、小堀遠州(1579-1647、
織部の弟子、徳川将軍家の茶道指南)らによって自由でゆとりのある「武家の茶」へと移行します。
織田有楽(1548-1622、織田信長の弟、利休十哲の一人)は、「如庵」にて自由な空間構成を試みます。
四畳半の広さに床を組み込み、床脇の壁を斜めにして三角形の板畳(鱗板)を入れ、また腰張に暦を貼るなど斬新で自由な茶室空間を創造しました4)。
古田織部は「燕庵」にて三畳台目の茶室に一畳の相伴席が付く茶室空間を創造しました。
織部、遠州らによる「武家」の茶は、武家が貴人を迎えた時の作法の考慮した空間構成がなされました。それを象徴するのが相伴席です。また十カ所もの窓を有する「燕庵」は、紹鴎、利休が求めた陰影の茶室空間から、時間の経過とともに様々な光の景色を造り出すができるという新たな茶室空間を創り出しました4)。
細川三斎(1563-1646、利休の弟子、三斎流の流祖)は、「四聖坊」にて、四畳半台目の茶室を建てたとありますが、現存しません。
この茶室空間の特徴は、床前に貴人畳があり、それから続いて矩折りに三畳台目が並ぶ形式で、江戸初期の武家社会を中心に流行した茶室空間の一つの型とされます4)。
小堀遠州は、「閑雲軒」にて、細長い四畳に台目畳の手前座を付けた四畳台目の茶室空間を創造しました。
客座は長方形の四畳で、その長辺のおよそ中央部に台目構えの点前座を設け、床の間は下座に構えました。
遠州は本来、壁面の隅にあけるべき躙口を、点前座の対面の壁の中間部に開けました。
「遠州の囲いに暗きところない」と言われるよう、織部同様窓を多用しましたが、必ず手前座の屋根裏に突上窓を切るなど、織部との違いも見せます4)。
また遠州は、草庵の茶室だけではなく、書院の中でも茶の湯の空間ができないかということを工夫し「密庵」を造っています。
この「密庵」は、四畳半に台目畳が付いている四畳半台目の茶室で、腰高の障子を入れ、違棚と付書院風な床があり、貼付壁で長押をめぐらすというまさに書院造の空間構成です。
このような遠州の試みは「忘筌」にも見られ、書院的な方法で茶室空間を創造することに挑戦しました4)。
上田宗箇(1563-1650、織部の弟子、上田宗箇流の流祖)は、織部に傾倒し、茶室の空間構成も四畳台目と相伴席に鎖の間と書院が続く構成を取ります。
鎖の間は、六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室を指しますが、織部、遠州の茶の湯は、茶室での茶の後、別の座敷へ客を導いてもてなす形式で、織部、遠州らの武家の茶の新たな茶の湯の形式と言えます4)。
金森宗和(1584-1657、宗和流の流祖)は、貴族に歓迎された茶匠であり、堂上公家の雅と武家の枯淡、そして侘び寂びとを生かし独自の茶風を築きました。
「庭玉軒」は、二畳台目の茶室で、その特徴は、中潜にあります。
中潜とは、塀を躙口のようにくり抜いた露地の仕切りの門で、内露地の一部が屋根の下にあるという構成になっています。
したがって蹲踞が屋根の下で使えることから内蹲踞とも言います。
宗和好みとして、宗和の関連を感じさせる茶室に「燈心亭」がありますが、この茶室空間は、三畳台目で違棚があり棚の中は貼付壁になっており、更に天井は格天井と書院の要素が入り込んだ「貴族」の茶を体現する空間となっています4)。
片桐石州(1605-1673、石州流の流祖、徳川将軍家の茶道指南)は、貴族にも将軍家にも歓迎された茶匠でした。
「慈光院茶室」では、二畳台目の茶室空間と二畳の相伴席を持ち、その相伴席と二畳台目の茶室との間に敷居を設け、相伴席の存在を強調した空間となっています。また、床が点前座の横に付く亭主床の構えを取り、しかも台目畳とし明らかに侘びの性格を強めた空間構成となっています4)。
石州は「天作の侘びでなければ侘びではない。人作の侘びは侘びではない4)」とし、利休に似た美意識を有していたものと考えられます。
松平不昧(1751-1818、不昧流の流祖、松江藩主) は、石州に影響を受けた数寄者で、遠州、三斎にも私淑。天下の名器の収集家でもありました。
不昧は、あらゆる先達の茶の湯を学び「我が流儀立つべからず、諸流皆我が流儀」との言葉を残します。
「菅田庵」にて、一畳台目中板入りの上座床を構えた茶室空間で、中板に炉を切らず隅炉を切るなど不昧独自の工夫が見えます4)。
一方、利休の死後、嫡男の千道安(1546-1607) が本家の堺千家を継ぐが、後に断絶。利休の後妻の連れ子であり、娘婿である千少庵(1546-1614) によって利休の茶は継承され、少庵の子千宗旦(1578-1658) の三人の息子たち(次男_一翁宗守:武者小路千家、三男_江岑宗左:表千家、四
男_仙叟宗室:裏千家)によって、現在まで続く三千家が生まれます。
宗旦は、「不審菴」にて一畳半の床無しの茶室を創造しました。
先述の通りあの利休でさえ、二畳の茶室あるいは一畳半(台目)の茶室を創造し、侘びの究極を模索したが、宗旦は更に床無しの一畳半の茶室を創造し、利休の目指した侘茶の復元を目指したと考えられます4)。
当初の三千家は、基本的に利休の侘び茶の継承を念頭に置いていたでしょうが、如心斎天然宗左(1705-1751、表千家7 代)、又玄斎一燈(1719-1771、裏千家8 代) 兄弟の時代には、時流の流れを読み、遊び心を組み入れて、草庵での侘び茶一辺倒では茶の湯を広げていけないと考え、 「七事式」が考案されます。
「七事式」とは、茶の湯の精神、技術をみがくために制定された稽古法であり、草庵の茶室のような小間では催すことができず、広間が必要になり、八畳が適当とされ、そこに炉が切られました。
そして八畳に入側(畳敷きの縁)を添える形が広間の基本となり、次第に六畳、十畳などの座敷にも炉を切るようになります4)。
現在では四畳半以下が小間で、それ以上を広間と呼ぶことが茶の湯の世界での決まりとしてあります。利休のころは「草庵」を小座敷(小間)、「書院」を広い座敷(広間)とし、「草庵」では、侘び茶で、炉を使った茶の湯を行い、「書院」であれば台子や棚物を使う茶の湯を行い、「書院」には炉を切りませんでした4)。
このように広間の茶室ができ、草庵(小座敷)を併用して茶の湯を行う仕方が千家の茶の世界にも広まります。
その後の茶室空間は、広間の茶室が普及する。中村4)は、現代の茶室空間は「大寄せの茶」が普及してきており、お客の収容力や給仕のしやすさや客や亭主との関係やその動線など、大寄せに適応し得る機能のみが注目されることに警鐘を鳴らしています。
一般に、明治維新から暫くは茶の湯にとって不幸な時代でした。
明治維新により、茶の湯を支えていた大名が権力を失い、また廃仏毀釈により多くの寺院が没落し、その屋敷あるいは伽藍が取り壊され、寺院に在った多くの茶室も破壊の憂き目に遭いました。
破壊されずに売却された茶室のいくつかは、博物館や博覧会会場に移築され、新たな生命が吹き込まれました。
そのような時代背景の中、茶の湯を支える新しい人々が現れました。いわゆる「数寄者」と呼ばれる人たちで、豊富な経済力により新たな茶室を建造し、また美術工芸品の扱いのように建造物の蒐集を行いました。
彼らは茶室にこれまでになかった新しい枠組みを持ち込みました3)。
近代以降の数寄者として著名は、益田鈍翁(益田孝:1848-1938、三井物産の創始者)や逸翁(小林一三:1873-1957、阪急東宝グループの創業者)、根津青山(根津嘉一郎:1860-1940、根津財閥の創始者) などが国宝あるいは重要文化財に指定されているような数々の美術工芸品を収集し、美術館という形で残したり、自らの美意識で茶室空間を創造しています。
また精中宗室玄々斎(1810-1877、裏千家11 代) は、第一回京都博覧会(1872(明治5)) にて、建仁寺正伝院に「椅子点」の席が設けられ、椅子に腰掛けての点前をおこないました。
これが茶の湯における立礼の始まりとされます。
その後、逸翁は、茶室「即庵(1936)」にて三畳台目の座敷の二方に土間の客席を設けました。
その他に堀口捨己(1895-1984、建築家)のビニールによる茶室「美似居(1951)」や谷口吉郎(1904-1979、建築家)の石と煉瓦と木でできた茶室「木石舎(1951)」、東京上野の松坂屋で行われた「新日本茶道展」での立礼茶室が試みられましたが、伝統はその流れをやすやすと改めさせることを容認しませんでした。
以上のように、江戸後期以降、茶室空間は「大寄せの茶」が普及による広間の茶室が普及する一方、少ないながらも明治、大正、昭和と、時代の数寄者たちによる茶室の創造も試みられてきましたが、現代では新たな展開も見られない状況にあります。
参考文献
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太田博太郎監修、中村昌生編:日本建築史基礎資料集成二十 茶室、中央公論美術出版、1974.04
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近藤康子:近代建築家の茶室論にみる茶の湯の生活空間に関する研究、京都大学博士学位論文、2014.03
-
船越徹、熊倉功夫、中村利則、西和夫:茶室空間入門、彰国社、1992.09
-
中村昌生:茶室を読む 茶匠の工夫と創造、淡交社、2002.10

査読付き論文
論文要旨
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本研究は、旧松浦詮邸茶室「閑雲亭」(長崎県平戸市)の測量データを基に、茶室空間を形成する主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行い、茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴を明らかにすることを目的とする。更に本研究では、これまでの建築史学における茶室空間の意匠的様相や分類・師弟関係などを整理・分析し、その時間系列的構成モデルを作成た上で、この茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴や時代的位置づけを行うものである。
研究の背景
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茶室空間は日本建築において、特徴的独自性をもつ。喫茶、食事、会話という行為がなされる日常的空間でありながら、その行為の順序や仕方が厳密に形式化された茶事を行う点においては非日常的空間とも言える。日常と非日常という背反的な二要素が同時に満たされ、しかも「侘び」や「寂び」、
「数寄」などの日本独自の美意識が集約され、昇華された空間として現代まで継承されている。 -
茶の湯は古く「数寄道」と言われ、『皆自己の作意機転いてならひのなき』を極意とし、個性や創意が重んじられてきた1)。こうしたことが茶室の意匠・表現を多様にしていると考えられる。このような多様さは、建築史学などにおいて残存する文献資料等から茶室作者(以下茶匠) を断定したり、断定できないものに関しても「○○好み」といった、似た意匠などで分類することが行われてきたが、分類基準としては多少あいまいであり、研究者や文献によってもその分類が異なるということが見られた。
研究の目的
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本研究は実測調査した茶室「閑雲亭」に関し、これまで建築史学においてあまり行われてこなかった数量的アプローチを行い、既往の建築史学における知見との違いを検証し、それを補完したり、新たな知見を提示するなど、茶室空間に関する研究に対して貢献することを目的とする。具体的には、茶室( 閑雲亭) を形成する床面積や天井高、床や窓の広さ、柱の数といった主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行うことで、茶室の空間構成の特徴を明らかにし、既往の建築史学的分類との比較検証を行うものである。
建築史学における茶室に関する既往研究
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日本建築における建築史学の研究は、幕末から明治期に始まり、昭和初期には日本独自の伝統的遺構を再評価する動きが高まり茶室が再評価された。中でも茶室論の思想的基盤を形成した先駆的として堀口捨己(1895-1984、建築家)が知られている3)。また太田、中村ら1)は、茶室史の総体を編纂し利休風から武家風、貴族風などの歴史的発展の変遷及び各作風の茶室の特徴をまとめた。船越ら4)は、茶室空間が日本建築の伝統の中で空間としてどう位置づけられるのかという視点で捉え、各時代の茶室空間の特徴を歴史的位置付けを行った。更に中村5)は、草庵茶室から書院茶室への意匠的変遷を時系列で整理し、各年代の茶匠の工夫と創意をまとめた。これらの既往研究では、主に茶匠の作風・好み、師弟関係等で語られ、図1に示すような茶匠の師弟関係が一般的に知られている。そこで本研究では、茶室を「空間」という視点で見つめ直し、建築史学における主要な「茶室空間」の変遷を以下に整理する。
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元来、喫茶の文化は栄西禅師(1141-1215) に始まるとされるが、室町末期には能阿弥と孫の相阿弥が完成させた書院の茶が現れる。安土桃山期に村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、 千利休(1522-1591) からなる侘び茶が完成し、草庵茶室へと繋がる。この侘び茶の空間は珠光の頃は六畳敷であったが、紹鴎が四畳半とし、更に利休は待庵にて二畳の茶室を造り侘びの究極を模索した5)。
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利休後の茶室空間は、利休七哲(十哲) と呼ばれる武将の弟子たちによって多様な展開を見せる。特に古田織部(1544-1615、利休七哲)、小堀遠州(1579-1647、織部の弟子)らによって自由でゆとりのある武家の茶へと移行する。
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織田有楽(1548-1622、利休十哲)は、「如庵」で四畳半の広さに床を組み込み、床脇の壁を斜めにし三角形の板畳(鱗板) を入れ、腰張に暦を貼るなど斬新で自由な茶室空間を創造した5)。
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古田織部は「燕庵」にて三畳台目の茶室に一畳の相伴席が付く茶室空間を創造した。「燕庵」は十カ所もの窓を有し、紹鴎、利休が求めた陰影の茶室空間から、時間の経過と共に様々な光の景色を造り出すことができるという新たな茶室空間を創造した5)。織部、遠州らによる武家の茶は、武家が貴人を迎えた時の作法を考慮した相伴席が設けられた。
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小堀遠州は、「閑雲軒」にて細長い四畳に台目畳の手前座を付けた四畳台目の茶室空間を創造した。また躙口を点前座の対面の壁の中間部に開けることもした。更に織部同様窓を多用したが、必ず手前座の屋根裏に突上窓を切るなど織部との違いも見せた5)。そして草庵の茶室だけではなく、書院の中でも茶の湯の空間を工夫し「密庵」を造った5)。
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細川三斎(1563-1646、利休七哲)は、「四聖坊」にて、四畳半台目の茶室を建てたとあるが現存しない。この茶室空間の特徴は、床前に貴人畳があり、それから続いて矩折りに三畳台目が並ぶ形式で、江戸初期の武家社会を中心に流行した茶室空間の一つの型とされる5)。
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上田宗箇(1563-1650、織部の弟子)は織部に傾倒し、茶室も四畳台目と相伴席に鎖の間と書院が続く構成を取る。
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織部、遠州の茶の湯は、茶室での茶の後、別の座敷へ客を導いてもてなす形式で、新たな茶の湯の形式と言える5)。
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金森宗和(1584-165)は、公家の雅と武家の侘び寂びとを生かし独自の茶風を築いた。宗和好みの「庭玉軒」は、二畳台目の茶室で特徴は中潜にある。また宗和好みの「灯心亭」は三畳台目で違棚があり、棚の中は貼付壁で更に天井は格天井と書院の要素が入れた貴族の茶を体現した5)。
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片桐石州(1605-1673)は「慈光院茶室」にて、二畳台目の茶室空間と二畳の相伴席を持ち、その間に敷居を設け、相伴席の存在を強調した空間を創造した5)。
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松平不昧(1751-1818) は、石州に影響を受けた数寄者で、遠州、三斎にも私淑。「菅田庵」は一畳台目中板入りの上座床を構えた茶室空間で、中板に炉を切らず隅炉を切るなど不昧独自の工夫が見える5)。
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一方利休の死後、嫡男の道安(1546-1607) が本家の堺千家を継ぐが、後に断絶。利休の後妻の連れ子(娘婿) の少庵(1546-1614) によって利休の茶は継承され、少庵の子宗旦(1578-1658) の三人の息子(次男_一翁宗守:武者小路千家、三男_江岑宗左:表千家、四男_仙叟宗室:裏千家)によって、現在まで続く三千家が生まれる。
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宗旦は、「不審菴」にて一畳半の床無しの茶室を創造し、利休の目指した侘茶の復元を目指した5)。
当初の三千家は、基本的に利休の侘び茶の継承を念頭に置いていたであろうが、如心斎天然宗左(1705-1751、表千家7代)、又、玄斎一燈(1719-1771、裏千家8代) 兄弟の時代には「七事式」が考案され、以降、草庵(小間)と広間の茶室を併用して茶の湯を行う仕方が千家の茶に定着し、そ
の後の茶室空間は広間の茶室が普及する。
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中村5)は、この「大寄せの茶」に、茶室空間本来の在り方からずれてきていることに警鐘を鳴らしている。
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明治維新から暫くは茶の湯にとって不幸な時代であったが、やがて「数寄者」と呼ばれる豊富な経済力により新たな茶室を建造したり蒐集する人たちが現れた4)。
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この数寄者として著名は、益田孝(鈍翁:1848-1938、三井物産創業者) や小林一三(逸翁:1873-1957、阪急東宝グループ創業者)、根津嘉一郎(青山:1860-1940、根津財閥創業者) などで、彼らは自らの美意識で茶室空間を創造した。
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この他、精中宗室玄々斎(1810-1877、裏千家11代) は、第一回京都博覧会(1872) にて、建仁寺正伝院に椅子点の席を設け、立礼の始まりとされる。
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また逸翁は茶室「即庵(1936)」にて三畳台目の座敷の二方に土間の客席を設けた茶室空間を創造した。
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他に堀口捨己のビニールによる茶室「美似居(1951)」や谷口吉郎(1904-1979、建築家) の石と煉瓦と木でできた茶室「木石舎(1951)」、東京上野松坂屋で行われた「新日本茶道展」での立礼茶室が試みられたが、伝統はその流れを易々と改めることを容認しなかった。
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以上のように、江戸後期以降、茶室空間は「大寄せの茶」が普及し広間の茶室が普及する一方、少ないながらも明治、大正、昭和と時代の数寄者たちによる茶室の創造も試みられてきたが、現代では新たな展開も見られない状況にある。

図1 茶匠(侘び茶)の特徴と関係図
「閑雲亭」に関する建築史学的既往研究
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閑雲亭は、国の有形文化財として登録(2006.03) されており、1893 年に松浦家第37 代松浦詮(1840-1908) により建てられたとの記録が残るが、1987 年の台風で倒壊した。そこで部材の再利用に努め翌年現在の茶室閑雲亭が再建されたという経緯を持ち6)、現存する図面は見い出せない。
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平戸・松浦資料博物館提供資料7) には、台風被害に合う前の中村昌生氏の解説7) があり、それによると閑雲亭は、梁行二間、桁行三間の寄棟造り茅葺屋根の建物とある。屋根の表面は杉皮で蔽い割竹で押さえてあったという。現在の閑雲亭屋根に、これらの杉皮や割竹は見られない。東(正面) から南は、開放的で腰障子を立てていた。この障子の腰にはすべて大小二つの節を見せた杉板がはめ込んであったようだが、現在は別の障子が立つ。北側の屋根は低く葺き下ろされ、竹垂木の屋根裏の下に蹲
つくばい踞が組まれ、奥に雪隠もある。この北側の低い土間庇に面して躙口が開けられている。
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内部は一面に叉首組の小屋裏を表し、茶室は四畳枡床、すなわち四畳半の隅半畳を床にした間取り。
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床の左の一畳が点前座で炉は向切。この点前座の天井だけ、約六尺五寸程の高さに葭簀の天井を張る。その廻縁は、四方とも竹を用いている。
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床柱は上部が三つに枝分かれした曲木で、水平に伸びた枝が落掛となっており、点前座の天井の竹の縁も小枝の分れ目に止まっている。有名な夕佳亭(京都・鹿苑寺金閣の北東方の高所にある茶屋)の南天の床柱に勝る奇構と言える。
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風炉先に当たる床脇は、下部を吹抜き、不揃いの高さの竹を並べ貫を一筋入れている。点前座の上
だけ天井を張ったのは、桂離宮月波楼の一の間の扱いと同じという。茶室の南には次の間六畳が襖四本でまじ切られていたようだが、現在は取り外されている。 -
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中村はこの閑雲亭を自然木の使い方が大胆で、実に軽妙で陽気な技法が駆使され、風流で京風の数寄屋のもたない陽気な詩情にあふれていると評価した7)。
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また既往研究8) によれば、松浦詮は、松浦家第26代鎮信によって大成された茶道鎮信流を学び、深く考究したとある。この鎮信流を大成させた鎮信は、数寄大名として名高く、はじめ茶の湯を多賀左近、金森宗和に学ぶ。その後、片桐石州の茶事に没入し、石州流を基本とし、自ら新たに鎮信流を創始したとある。このことから鎮信流は、貴族好み(書院風)に位置付けられる。


図2 茶室閑雲亭の平面図と展開図
茶室に関する空間分析の既往研究
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茶室の空間分析の既往研究として北川ら9)の研究がある。これは茶室の内部空間のある点から視線の遮蔽体までの距離として定義された〈視深度〉に関し、亭主と正客との視深度を測定し、茶匠による空間的広がりを考察したものである。
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また佐藤ら10)は茶室の内部立面を面と線の構成ととらえ、書院と草庵の立面構成の違いを画面分割の手法を用いて分析した。水谷ら11)は、壁や床面、天井などの構成部材により「囲う」ことで創出された内部空間に人間が入り「包まれる」ことにより表出される空間の在り方を〈空間包囲性〉と定義し、亭主と正客の位置を決定づける重要な要素となる畳の敷き方、炉の位置などにとらわれず〈視深度〉から見た〈空間包囲性〉の特徴を示した。
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更に伊藤ら12、13)は、茶室の構成要素の物理量に着目し、多変量解析による分析によって、要素間の関係性や茶室の類型的構造を数量的に把握し、建築史学における分類との比較検証を行っている。
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本研究は、この伊藤ら12、13)の研究の延長線上に位置するもので、伊藤らの知見を基に閑雲亭の空間分析を行うものである。すなわち本研究の新規性は、既往研究12、13)における数量的アプローチの手法を用い、これまで建築史学的範疇でしか語られていなかった九州地方における茶室「閑雲亭」に対し空間分析を行い、数量的新たな知見を示し、建築史学による草庵茶室の大きな時代の流れの中での位置づけを行う点にある。
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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伊藤ら12、13)の研究では、安土桃山時代から昭和初期までの国宝や重要文化材に指定されている、あるいは建築史学的に重要とされる代表的な草庵茶室57 例の構成要素及びその物理量を集計し、多変量解析を行っている。本研究は「閑雲亭」の空間構成が、これまでの建築史学による茶室空間の変遷における位置付けを数量的アプローチによって行う事を目的とするため、各時代における作風の代表的茶室空間に着目し、伊藤ら12、13)の57 例中9 例を選んだ。
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すなわち「待庵」は利休による侘び茶の極致の空間として、「燕庵」は織部による利休の陰影の茶室から明るい空間への転換点の空間として、「如庵」は利休以降の自由な空間の先進事例として、 「庭玉軒」「灯心亭」は宗和による貴族好みの空間として、「今日庵」「官休庵」は三千家の基本的茶室空間として、また「蓑庵」は三千家における七事式導入着前の千家の草庵茶室として、そして「菅田庵」は不昧による利休の侘び茶空間への再希求の空間として選んだ。
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更に閑雲亭を加え計10例(図3参照)に関して空間を構成する主な構成要素の物理量を多変量解析によって分析する。

図3 分析に用いた茶室平面図
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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表1には、各茶室の対象構成要素とその物理量を示す。 No.1~9における茶室の主な構成要素の物理量は、既往研究 13)より転載し注2)、No.10「閑雲亭」においては、既往研究2)の実測図面を基に、既往研究 13)に準じて小数点4位までとし算出した注3)。その他の袖壁や窓面積、襖障子、床面積、 天井高などもすべて既往研究 13)に準じて算出した注 4)。
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これらのデータを統計ソフト JMP18 を用いてクラスター 分析及び主成分分析を行った。
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表1のような単位や桁が異なるデータから多変量解析を行うと、数字が一桁違うだけで大きく分散に影響を及ぼす可能性がある。そのため統計ソフト上で平均値が 0、分散が 1 になるように出力を標準化し解析を行った注5)。
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またクラスター分析においては、最も近いデータ同士を順にまとめる階層的クラスター分析で、 分類感度が高くデータの細かな違いを検出しやすい Ward 法を用いた。
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このクラスター分析のデンドログラム(樹形図)を図5に示す。 図5を見ると、距離 3.212 では6つのクラスターが確認 できるが、「閑雲亭」は距離 5.528 になってやっと他の9つ の茶室と結合し一つのクラスターになるまで、他とのクラ スターを形成できておらず、「閑雲亭」の空間構成の特異性 を示す結果となった。この結果は、先の建築史学における 既往研究では確認できないもので、本研究における大きな 成果と考えられる。

多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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次に主成分分析において、各主成分係数及び因子負荷量、 寄与率などを表2に示す。なお表1において「付書院」に関しては、No.1~10 のいずれの茶室にも存在していないため、欠測値として算出されていない。
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表2の主成分係数を見ると、第一主成分においては、「角柱」と「天井高」に正方向に数値が大きく、第二主成分においては、「床」と「床面積」に正方向、「向板」に負の方向に数値が大きく、第一主成分を「垂直方向」、第二主成分 を「平面の規模」の成分と命名した。
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更に、第一主成分と第二主成分における主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロットを図6に示す。スコアプロットは、第一主成分分析のスコアと第二主成分分析 のスコアとの関係をグラフ(図6左図)にしたものであり、 因子負荷量プロットは、第一主成分の各変数の係数と第二主成分の係数との関係をグラフ(図6右図)にしたもので ある。この係数は、各主成分の固有ベクトルを構成する値で、成分の各変数の相対的な重みを表す。
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図6における左図スコアプロットを見ると、「閑雲亭」が第一主成分:垂直方向において、他の茶室とは明らかに異 なる高い数値を示しているのが分かる。この左図スコアプロットには、図6の6つのクラスターを示す範囲を破線で 示している。これを見ると、クラスター1及び2、スコアプロット図の中心付近に密集して分布している事が分かり、図5のデンドログラムの距離の近さを示すものでもある。
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クラスター3~6は、それぞれ四方に散らばった分布が見られ、それぞれの空間構成の特異性が分かる。また、同右図の因子負荷量プロットを見ると第一主成分:垂直方 向に関連が高い空間要素は「天井高」「角柱」「障子」「床面積」であることが分かる。
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一方「窓」「中板」の要素は、逆 に関連が低い事が示された。これら要素の内、「天井高」「角 柱」に関しては第二主成分:平面の規模にはあまり影響せず、むしろ関連が低いことが示された。「障子」「床面積」 に関しては、第二主成分:平面の規模に関連の高さが見られ、 更に最も関連が見られる要素が「床」であり、逆に最も関 連が低いのは「向板」であった。
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ここで、図6におけるスコアプロットと因子負荷量プロッ トを組み合わせたものを図7に示す。図7を見ると、閑雲亭が空間の構成要素のうち「天井高」と「角柱」に特徴があり、第一主成分:垂直方向に大きく 関連しており、他の茶室との大きな違いとして示されてい るのが数量的にはっきりと分かる。この結果は建築史学の 知見において天井高が高い特出性は語られていたものの、 角柱との関連性は直接的に語られていない。ちなみに建築 史学的知見において、閑雲亭が貴族好み(書院風)に類する作風に属するとしていたのは、先述の通り作者松浦詮が、鎮信流を深く考究し、またその鎮信流を大成させた鎮信が、 宗和や石州に学んだことから貴族好み(書院風)と考えられていたが、本研究によって「角柱」が特徴的であるとの 分析結果が数量的に示されたことは書院風の特徴と合致し、 建築史学的知見を数量的分析によって補完できたと言え、 本研究における一つの成果と言える。又クラスター3、4、 5に分類された菅田庵、灯心亭、今日庵は、それぞれ「中板」「飾棚」「向板」に特徴があるのが分かる。これは図3の各平面図からも確認でき、建築史学的知見との合致が見られた。

図6 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロット

図7 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量プロットの組合せ

図8 茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
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このような本研究における空間分析の結果と、これまでの建築史学的知見を合わせ、空間構成の特徴と時代推移を 示す構成モデルを図8を作成した。縦軸には時間軸を、横 軸には茶室の内部空間の広さを取り、茶室の空間的特徴に 着目した構成モデルとした。
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図8は、基本的に建築史学における知見を基に作成して いるが、その中でも本研究における空間分析(クラスター分析)の結果を追記し、建築史学との違いを示している。例えば本研究の空間分析によれば、千家の茶室においても「 日庵」と「官休庵」は、構成要素の「向板」が特徴的な「今日庵」の独自性が際立ち、空間構成的には別のクラスター として解析されている。このことは本研究における新たな 知見と言える。また建築史学においては貴族好み(書院風) の範疇と考えられる「庭玉軒」と「灯心亭」であるが、本 研究における空間分析の結果「灯心亭」が構成要素の「飾棚」に特徴があり、「庭玉軒」は「待庵」の草庵(侘び)茶室や「官 休庵」「蓑庵」などの千家の茶室と同じクラスターとして解 析されていることから、建築史学的知見とは異なり、空間 構成的な視点での新たな知見が示唆されたものと言える。 更に建築史学においては武家好みの範疇とされた「如庵」「燕庵」、図5においても同じクラスターとして解析され建築史学と本研究における空間分析の結果の合致を得た。ま た建築史学的には、武家好みの遠州、三斎に私淑したとさ れる不昧の「菅田庵」は、「如庵」「燕庵」とは別のクラスター として解析され、本研究による新たな知見と言える。
まとめ
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これまで茶室建築は、茶匠の師弟関係から語られることが多く、建築的意匠に関しても、茶匠ごとの「好み」による分類が行われてきたが、これらは信頼できる資料が現存 しない場合、その判断はある意味あいまいであった。
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そこで本研究では、茶室内部空間における意匠的様相を、空間を構成する主要な要素(広さ・高さ・窓など)を数量化し、 多変量解析を行うことで、これまでの建築史学における茶 室空間における意匠的様相や分類などと比較検証し、その違いや共通点を検証した。その結果、閑雲亭が「天井高」「角柱」の構成要素が特出した空間的特徴を示し、クラスター6として単独で分類され、貴族好み( 書院風)の茶室とは 別の分類として解析されたことは、本研究における新たな知見と言える。
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閑雲亭は建築史学的には茶匠松浦詮が、鎮信流を学び、深く考究したとあることから、貴族好み(書 院風)の系統かとも考えられたが、空間分析の結果、貴族 好みの代表的茶室「庭玉軒」「灯心亭」とも異なり、その他 の茶室の空間構成とも異なる特徴的な空間構成であることが分かった。ただ図7より閑雲亭は「角柱」が特徴的な構 成要素として示されており、これは貴族好み(書院風)の特徴的要素の一つであることから、全く貴族好み(書院風)と異なるものが造られたものでもない事が読み取れる。
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閑雲亭のような天井の高い茶室空間は珍しく、京都周辺地域に現存する主要な茶室は例に乏しい。ただ小堀遠州好みとされる傘亭(作者不明:京都高台寺)に見られるものの既 往研究 13)にある57 の主要な茶室にも例が見られない。このような特徴的空間構成を示す閑雲亭が、既存の主要な茶室とは著しく異なる空間として数量的解析がなされ、また 同時に、建築史学的知見と合致する結果もいくつか得られたことで、これまでの建築史的知見を更に補完するものであると言え、本研究の意義を示すものと言える。
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閑雲亭が建設された 1893年(明治26年 )は、建築史学的には茶道が衰退していた時期である。一方建設地である平戸市は、鎖国の時代より西洋文化との交流が見られ、その場所 性を考慮すると、西洋的あるいは近代的な感覚が他の地域よりも先進的であったと考えられる。そのため茶匠:松浦詮は これまでの作法に執拗に固執することなく、新たな茶道を復 興すべく、全く自由で開放的な空間構成が創造されたものではないかとも考えられるが、これらを裏付ける資料等は見い出せない。ただ本研究によって、閑雲亭はこれまでの主な茶室空間とは異なる新たな空間構成の茶室であることが数量的 解析により示唆された。
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尚、本研究における時代的位置づけにおいては、明治期以降の数寄者好みと言われる茶室空間との比較検討は行っていない。これは先述の通り、明治期以降の茶の湯の衰退によって安土桃山期、江戸初期~中期の茶室文化の継承が危機的状 況にあったことを示し、明治期以降の数寄者好みの歴史的位 置づけが未だ明確ではない事による。今後はこれら数寄者好 みに位置づけられる無事庵・弘仁亭などの茶室空間の調査分析等を進め、建築史学的知見との比較検証を行い、茶室建築 に関する研究に貢献して行きたい。
査読付き論文
論文要旨
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本研究は、旧松浦詮邸茶室「閑雲亭」(長崎県平戸市)の測量データを基に、茶室空間を形成する主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行い、茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴を明らかにすることを目的とする。更に本研究では、これまでの建築史学における茶室空間の意匠的様相や分類・師弟関係などを整理・分析し、その時間系列的構成モデルを作成た上で、この茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴や時代的位置づけを行うものである。
研究の背景
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茶室空間は日本建築において、特徴的独自性をもつ。喫茶、食事、会話という行為がなされる日常的空間でありながら、その行為の順序や仕方が厳密に形式化された茶事を行う点においては非日常的空間とも言える。日常と非日常という背反的な二要素が同時に満たされ、しかも「侘び」や「寂び」、
「数寄」などの日本独自の美意識が集約され、昇華された空間として現代まで継承されている。 -
茶の湯は古く「数寄道」と言われ、『皆自己の作意機転いてならひのなき』を極意とし、個性や創意が重んじられてきた1)。こうしたことが茶室の意匠・表現を多様にしていると考えられる。このような多様さは、建築史学などにおいて残存する文献資料等から茶室作者(以下茶匠) を断定したり、断定できないものに関しても「○○好み」といった、似た意匠などで分類することが行われてきたが、分類基準としては多少あいまいであり、研究者や文献によってもその分類が異なるということが見られた。
研究の目的
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本研究は実測調査した茶室「閑雲亭」に関し、これまで建築史学においてあまり行われてこなかった数量的アプローチを行い、既往の建築史学における知見との違いを検証し、それを補完したり、新たな知見を提示するなど、茶室空間に関する研究に対して貢献することを目的とする。具体的には、茶室( 閑雲亭) を形成する床面積や天井高、床や窓の広さ、柱の数といった主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行うことで、茶室の空間構成の特徴を明らかにし、既往の建築史学的分類との比較検証を行うものである。
建築史学における茶室に関する既往研究
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日本建築における建築史学の研究は、幕末から明治期に始まり、昭和初期には日本独自の伝統的遺構を再評価する動きが高まり茶室が再評価された。中でも茶室論の思想的基盤を形成した先駆的として堀口捨己(1895-1984、建築家)が知られている3)。また太田、中村ら1)は、茶室史の総体を編纂し利休風から武家風、貴族風などの歴史的発展の変遷及び各作風の茶室の特徴をまとめた。船越ら4)は、茶室空間が日本建築の伝統の中で空間としてどう位置づけられるのかという視点で捉え、各時代の茶室空間の特徴を歴史的位置付けを行った。更に中村5)は、草庵茶室から書院茶室への意匠的変遷を時系列で整理し、各年代の茶匠の工夫と創意をまとめた。これらの既往研究では、主に茶匠の作風・好み、師弟関係等で語られ、図1に示すような茶匠の師弟関係が一般的に知られている。そこで本研究では、茶室を「空間」という視点で見つめ直し、建築史学における主要な「茶室空間」の変遷を以下に整理する。
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元来、喫茶の文化は栄西禅師(1141-1215) に始まるとされるが、室町末期には能阿弥と孫の相阿弥が完成させた書院の茶が現れる。安土桃山期に村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、 千利休(1522-1591) からなる侘び茶が完成し、草庵茶室へと繋がる。この侘び茶の空間は珠光の頃は六畳敷であったが、紹鴎が四畳半とし、更に利休は待庵にて二畳の茶室を造り侘びの究極を模索した5)。
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利休後の茶室空間は、利休七哲(十哲) と呼ばれる武将の弟子たちによって多様な展開を見せる。特に古田織部(1544-1615、利休七哲)、小堀遠州(1579-1647、織部の弟子)らによって自由でゆとりのある武家の茶へと移行する。
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織田有楽(1548-1622、利休十哲)は、「如庵」で四畳半の広さに床を組み込み、床脇の壁を斜めにし三角形の板畳(鱗板) を入れ、腰張に暦を貼るなど斬新で自由な茶室空間を創造した5)。
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古田織部は「燕庵」にて三畳台目の茶室に一畳の相伴席が付く茶室空間を創造した。「燕庵」は十カ所もの窓を有し、紹鴎、利休が求めた陰影の茶室空間から、時間の経過と共に様々な光の景色を造り出すことができるという新たな茶室空間を創造した5)。織部、遠州らによる武家の茶は、武家が貴人を迎えた時の作法を考慮した相伴席が設けられた。
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小堀遠州は、「閑雲軒」にて細長い四畳に台目畳の手前座を付けた四畳台目の茶室空間を創造した。また躙口を点前座の対面の壁の中間部に開けることもした。更に織部同様窓を多用したが、必ず手前座の屋根裏に突上窓を切るなど織部との違いも見せた5)。そして草庵の茶室だけではなく、書院の中でも茶の湯の空間を工夫し「密庵」を造った5)。
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細川三斎(1563-1646、利休七哲)は、「四聖坊」にて、四畳半台目の茶室を建てたとあるが現存しない。この茶室空間の特徴は、床前に貴人畳があり、それから続いて矩折りに三畳台目が並ぶ形式で、江戸初期の武家社会を中心に流行した茶室空間の一つの型とされる5)。
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上田宗箇(1563-1650、織部の弟子)は織部に傾倒し、茶室も四畳台目と相伴席に鎖の間と書院が続く構成を取る。
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織部、遠州の茶の湯は、茶室での茶の後、別の座敷へ客を導いてもてなす形式で、新たな茶の湯の形式と言える5)。
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金森宗和(1584-165)は、公家の雅と武家の侘び寂びとを生かし独自の茶風を築いた。宗和好みの「庭玉軒」は、二畳台目の茶室で特徴は中潜にある。また宗和好みの「灯心亭」は三畳台目で違棚があり、棚の中は貼付壁で更に天井は格天井と書院の要素が入れた貴族の茶を体現した5)。
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片桐石州(1605-1673)は「慈光院茶室」にて、二畳台目の茶室空間と二畳の相伴席を持ち、その間に敷居を設け、相伴席の存在を強調した空間を創造した5)。
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松平不昧(1751-1818) は、石州に影響を受けた数寄者で、遠州、三斎にも私淑。「菅田庵」は一畳台目中板入りの上座床を構えた茶室空間で、中板に炉を切らず隅炉を切るなど不昧独自の工夫が見える5)。
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一方利休の死後、嫡男の道安(1546-1607) が本家の堺千家を継ぐが、後に断絶。利休の後妻の連れ子(娘婿) の少庵(1546-1614) によって利休の茶は継承され、少庵の子宗旦(1578-1658) の三人の息子(次男_一翁宗守:武者小路千家、三男_江岑宗左:表千家、四男_仙叟宗室:裏千家)によって、現在まで続く三千家が生まれる。
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宗旦は、「不審菴」にて一畳半の床無しの茶室を創造し、利休の目指した侘茶の復元を目指した5)。
当初の三千家は、基本的に利休の侘び茶の継承を念頭に置いていたであろうが、如心斎天然宗左(1705-1751、表千家7代)、又、玄斎一燈(1719-1771、裏千家8代) 兄弟の時代には「七事式」が考案され、以降、草庵(小間)と広間の茶室を併用して茶の湯を行う仕方が千家の茶に定着し、そ
の後の茶室空間は広間の茶室が普及する。
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中村5)は、この「大寄せの茶」に、茶室空間本来の在り方からずれてきていることに警鐘を鳴らしている。
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明治維新から暫くは茶の湯にとって不幸な時代であったが、やがて「数寄者」と呼ばれる豊富な経済力により新たな茶室を建造したり蒐集する人たちが現れた4)。
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この数寄者として著名は、益田孝(鈍翁:1848-1938、三井物産創業者) や小林一三(逸翁:1873-1957、阪急東宝グループ創業者)、根津嘉一郎(青山:1860-1940、根津財閥創業者) などで、彼らは自らの美意識で茶室空間を創造した。
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この他、精中宗室玄々斎(1810-1877、裏千家11代) は、第一回京都博覧会(1872) にて、建仁寺正伝院に椅子点の席を設け、立礼の始まりとされる。
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また逸翁は茶室「即庵(1936)」にて三畳台目の座敷の二方に土間の客席を設けた茶室空間を創造した。
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他に堀口捨己のビニールによる茶室「美似居(1951)」や谷口吉郎(1904-1979、建築家) の石と煉瓦と木でできた茶室「木石舎(1951)」、東京上野松坂屋で行われた「新日本茶道展」での立礼茶室が試みられたが、伝統はその流れを易々と改めることを容認しなかった。
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以上のように、江戸後期以降、茶室空間は「大寄せの茶」が普及し広間の茶室が普及する一方、少ないながらも明治、大正、昭和と時代の数寄者たちによる茶室の創造も試みられてきたが、現代では新たな展開も見られない状況にある。

図1 茶匠(侘び茶)の特徴と関係図
「閑雲亭」に関する建築史学的既往研究
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閑雲亭は、国の有形文化財として登録(2006.03) されており、1893 年に松浦家第37 代松浦詮(1840-1908) により建てられたとの記録が残るが、1987 年の台風で倒壊した。そこで部材の再利用に努め翌年現在の茶室閑雲亭が再建されたという経緯を持ち6)、現存する図面は見い出せない。
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平戸・松浦資料博物館提供資料7) には、台風被害に合う前の中村昌生氏の解説7) があり、それによると閑雲亭は、梁行二間、桁行三間の寄棟造り茅葺屋根の建物とある。屋根の表面は杉皮で蔽い割竹で押さえてあったという。現在の閑雲亭屋根に、これらの杉皮や割竹は見られない。東(正面) から南は、開放的で腰障子を立てていた。この障子の腰にはすべて大小二つの節を見せた杉板がはめ込んであったようだが、現在は別の障子が立つ。北側の屋根は低く葺き下ろされ、竹垂木の屋根裏の下に蹲
つくばい踞が組まれ、奥に雪隠もある。この北側の低い土間庇に面して躙口が開けられている。
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内部は一面に叉首組の小屋裏を表し、茶室は四畳枡床、すなわち四畳半の隅半畳を床にした間取り。
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床の左の一畳が点前座で炉は向切。この点前座の天井だけ、約六尺五寸程の高さに葭簀の天井を張る。その廻縁は、四方とも竹を用いている。
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床柱は上部が三つに枝分かれした曲木で、水平に伸びた枝が落掛となっており、点前座の天井の竹の縁も小枝の分れ目に止まっている。有名な夕佳亭(京都・鹿苑寺金閣の北東方の高所にある茶屋)の南天の床柱に勝る奇構と言える。
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風炉先に当たる床脇は、下部を吹抜き、不揃いの高さの竹を並べ貫を一筋入れている。点前座の上
だけ天井を張ったのは、桂離宮月波楼の一の間の扱いと同じという。茶室の南には次の間六畳が襖四本でまじ切られていたようだが、現在は取り外されている。 -
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中村はこの閑雲亭を自然木の使い方が大胆で、実に軽妙で陽気な技法が駆使され、風流で京風の数寄屋のもたない陽気な詩情にあふれていると評価した7)。
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また既往研究8) によれば、松浦詮は、松浦家第26代鎮信によって大成された茶道鎮信流を学び、深く考究したとある。この鎮信流を大成させた鎮信は、数寄大名として名高く、はじめ茶の湯を多賀左近、金森宗和に学ぶ。その後、片桐石州の茶事に没入し、石州流を基本とし、自ら新たに鎮信流を創始したとある。このことから鎮信流は、貴族好み(書院風)に位置付けられる。


図2 茶室閑雲亭の平面図と展開図
茶室に関する空間分析の既往研究
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茶室の空間分析の既往研究として北川ら9)の研究がある。これは茶室の内部空間のある点から視線の遮蔽体までの距離として定義された〈視深度〉に関し、亭主と正客との視深度を測定し、茶匠による空間的広がりを考察したものである。
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また佐藤ら10)は茶室の内部立面を面と線の構成ととらえ、書院と草庵の立面構成の違いを画面分割の手法を用いて分析した。水谷ら11)は、壁や床面、天井などの構成部材により「囲う」ことで創出された内部空間に人間が入り「包まれる」ことにより表出される空間の在り方を〈空間包囲性〉と定義し、亭主と正客の位置を決定づける重要な要素となる畳の敷き方、炉の位置などにとらわれず〈視深度〉から見た〈空間包囲性〉の特徴を示した。
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更に伊藤ら12、13)は、茶室の構成要素の物理量に着目し、多変量解析による分析によって、要素間の関係性や茶室の類型的構造を数量的に把握し、建築史学における分類との比較検証を行っている。
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本研究は、この伊藤ら12、13)の研究の延長線上に位置するもので、伊藤らの知見を基に閑雲亭の空間分析を行うものである。すなわち本研究の新規性は、既往研究12、13)における数量的アプローチの手法を用い、これまで建築史学的範疇でしか語られていなかった九州地方における茶室「閑雲亭」に対し空間分析を行い、数量的新たな知見を示し、建築史学による草庵茶室の大きな時代の流れの中での位置づけを行う点にある。
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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伊藤ら12、13)の研究では、安土桃山時代から昭和初期までの国宝や重要文化材に指定されている、あるいは建築史学的に重要とされる代表的な草庵茶室57 例の構成要素及びその物理量を集計し、多変量解析を行っている。本研究は「閑雲亭」の空間構成が、これまでの建築史学による茶室空間の変遷における位置付けを数量的アプローチによって行う事を目的とするため、各時代における作風の代表的茶室空間に着目し、伊藤ら12、13)の57 例中9 例を選んだ。
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すなわち「待庵」は利休による侘び茶の極致の空間として、「燕庵」は織部による利休の陰影の茶室から明るい空間への転換点の空間として、「如庵」は利休以降の自由な空間の先進事例として、 「庭玉軒」「灯心亭」は宗和による貴族好みの空間として、「今日庵」「官休庵」は三千家の基本的茶室空間として、また「蓑庵」は三千家における七事式導入着前の千家の草庵茶室として、そして「菅田庵」は不昧による利休の侘び茶空間への再希求の空間として選んだ。
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更に閑雲亭を加え計10例(図3参照)に関して空間を構成する主な構成要素の物理量を多変量解析によって分析する。

図3 分析に用いた茶室平面図
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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表1には、各茶室の対象構成要素とその物理量を示す。 No.1~9における茶室の主な構成要素の物理量は、既往研究 13)より転載し注2)、No.10「閑雲亭」においては、既往研究2)の実測図面を基に、既往研究 13)に準じて小数点4位までとし算出した注3)。その他の袖壁や窓面積、襖障子、床面積、 天井高などもすべて既往研究 13)に準じて算出した注 4)。
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これらのデータを統計ソフト JMP18 を用いてクラスター 分析及び主成分分析を行った。
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表1のような単位や桁が異なるデータから多変量解析を行うと、数字が一桁違うだけで大きく分散に影響を及ぼす可能性がある。そのため統計ソフト上で平均値が 0、分散が 1 になるように出力を標準化し解析を行った注5)。
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またクラスター分析においては、最も近いデータ同士を順にまとめる階層的クラスター分析で、 分類感度が高くデータの細かな違いを検出しやすい Ward 法を用いた。
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このクラスター分析のデンドログラム(樹形図)を図5に示す。 図5を見ると、距離 3.212 では6つのクラスターが確認 できるが、「閑雲亭」は距離 5.528 になってやっと他の9つ の茶室と結合し一つのクラスターになるまで、他とのクラ スターを形成できておらず、「閑雲亭」の空間構成の特異性 を示す結果となった。この結果は、先の建築史学における 既往研究では確認できないもので、本研究における大きな 成果と考えられる。

多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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次に主成分分析において、各主成分係数及び因子負荷量、 寄与率などを表2に示す。なお表1において「付書院」に関しては、No.1~10 のいずれの茶室にも存在していないため、欠測値として算出されていない。
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表2の主成分係数を見ると、第一主成分においては、「角柱」と「天井高」に正方向に数値が大きく、第二主成分においては、「床」と「床面積」に正方向、「向板」に負の方向に数値が大きく、第一主成分を「垂直方向」、第二主成分 を「平面の規模」の成分と命名した。
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更に、第一主成分と第二主成分における主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロットを図6に示す。スコアプロットは、第一主成分分析のスコアと第二主成分分析 のスコアとの関係をグラフ(図6左図)にしたものであり、 因子負荷量プロットは、第一主成分の各変数の係数と第二主成分の係数との関係をグラフ(図6右図)にしたもので ある。この係数は、各主成分の固有ベクトルを構成する値で、成分の各変数の相対的な重みを表す。
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図6における左図スコアプロットを見ると、「閑雲亭」が第一主成分:垂直方向において、他の茶室とは明らかに異 なる高い数値を示しているのが分かる。この左図スコアプロットには、図6の6つのクラスターを示す範囲を破線で 示している。これを見ると、クラスター1及び2、スコアプロット図の中心付近に密集して分布している事が分かり、図5のデンドログラムの距離の近さを示すものでもある。
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クラスター3~6は、それぞれ四方に散らばった分布が見られ、それぞれの空間構成の特異性が分かる。また、同右図の因子負荷量プロットを見ると第一主成分:垂直方 向に関連が高い空間要素は「天井高」「角柱」「障子」「床面積」であることが分かる。
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一方「窓」「中板」の要素は、逆 に関連が低い事が示された。これら要素の内、「天井高」「角 柱」に関しては第二主成分:平面の規模にはあまり影響せず、むしろ関連が低いことが示された。「障子」「床面積」 に関しては、第二主成分:平面の規模に関連の高さが見られ、 更に最も関連が見られる要素が「床」であり、逆に最も関 連が低いのは「向板」であった。
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ここで、図6におけるスコアプロットと因子負荷量プロッ トを組み合わせたものを図7に示す。図7を見ると、閑雲亭が空間の構成要素のうち「天井高」と「角柱」に特徴があり、第一主成分:垂直方向に大きく 関連しており、他の茶室との大きな違いとして示されてい るのが数量的にはっきりと分かる。この結果は建築史学の 知見において天井高が高い特出性は語られていたものの、 角柱との関連性は直接的に語られていない。ちなみに建築 史学的知見において、閑雲亭が貴族好み(書院風)に類する作風に属するとしていたのは、先述の通り作者松浦詮が、鎮信流を深く考究し、またその鎮信流を大成させた鎮信が、 宗和や石州に学んだことから貴族好み(書院風)と考えられていたが、本研究によって「角柱」が特徴的であるとの 分析結果が数量的に示されたことは書院風の特徴と合致し、 建築史学的知見を数量的分析によって補完できたと言え、 本研究における一つの成果と言える。又クラスター3、4、 5に分類された菅田庵、灯心亭、今日庵は、それぞれ「中板」「飾棚」「向板」に特徴があるのが分かる。これは図3の各平面図からも確認でき、建築史学的知見との合致が見られた。

図6 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロット

図7 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量プロットの組合せ

図8 茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
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このような本研究における空間分析の結果と、これまでの建築史学的知見を合わせ、空間構成の特徴と時代推移を 示す構成モデルを図8を作成した。縦軸には時間軸を、横 軸には茶室の内部空間の広さを取り、茶室の空間的特徴に 着目した構成モデルとした。
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図8は、基本的に建築史学における知見を基に作成して いるが、その中でも本研究における空間分析(クラスター分析)の結果を追記し、建築史学との違いを示している。例えば本研究の空間分析によれば、千家の茶室においても「 日庵」と「官休庵」は、構成要素の「向板」が特徴的な「今日庵」の独自性が際立ち、空間構成的には別のクラスター として解析されている。このことは本研究における新たな 知見と言える。また建築史学においては貴族好み(書院風) の範疇と考えられる「庭玉軒」と「灯心亭」であるが、本 研究における空間分析の結果「灯心亭」が構成要素の「飾棚」に特徴があり、「庭玉軒」は「待庵」の草庵(侘び)茶室や「官 休庵」「蓑庵」などの千家の茶室と同じクラスターとして解 析されていることから、建築史学的知見とは異なり、空間 構成的な視点での新たな知見が示唆されたものと言える。 更に建築史学においては武家好みの範疇とされた「如庵」「燕庵」、図5においても同じクラスターとして解析され建築史学と本研究における空間分析の結果の合致を得た。ま た建築史学的には、武家好みの遠州、三斎に私淑したとさ れる不昧の「菅田庵」は、「如庵」「燕庵」とは別のクラスター として解析され、本研究による新たな知見と言える。
まとめ
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これまで茶室建築は、茶匠の師弟関係から語られることが多く、建築的意匠に関しても、茶匠ごとの「好み」による分類が行われてきたが、これらは信頼できる資料が現存 しない場合、その判断はある意味あいまいであった。
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そこで本研究では、茶室内部空間における意匠的様相を、空間を構成する主要な要素(広さ・高さ・窓など)を数量化し、 多変量解析を行うことで、これまでの建築史学における茶 室空間における意匠的様相や分類などと比較検証し、その違いや共通点を検証した。その結果、閑雲亭が「天井高」「角柱」の構成要素が特出した空間的特徴を示し、クラスター6として単独で分類され、貴族好み( 書院風)の茶室とは 別の分類として解析されたことは、本研究における新たな知見と言える。
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閑雲亭は建築史学的には茶匠松浦詮が、鎮信流を学び、深く考究したとあることから、貴族好み(書 院風)の系統かとも考えられたが、空間分析の結果、貴族 好みの代表的茶室「庭玉軒」「灯心亭」とも異なり、その他 の茶室の空間構成とも異なる特徴的な空間構成であることが分かった。ただ図7より閑雲亭は「角柱」が特徴的な構 成要素として示されており、これは貴族好み(書院風)の特徴的要素の一つであることから、全く貴族好み(書院風)と異なるものが造られたものでもない事が読み取れる。
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閑雲亭のような天井の高い茶室空間は珍しく、京都周辺地域に現存する主要な茶室は例に乏しい。ただ小堀遠州好みとされる傘亭(作者不明:京都高台寺)に見られるものの既 往研究 13)にある57 の主要な茶室にも例が見られない。このような特徴的空間構成を示す閑雲亭が、既存の主要な茶室とは著しく異なる空間として数量的解析がなされ、また 同時に、建築史学的知見と合致する結果もいくつか得られたことで、これまでの建築史的知見を更に補完するものであると言え、本研究の意義を示すものと言える。
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閑雲亭が建設された 1893年(明治26年 )は、建築史学的には茶道が衰退していた時期である。一方建設地である平戸市は、鎖国の時代より西洋文化との交流が見られ、その場所 性を考慮すると、西洋的あるいは近代的な感覚が他の地域よりも先進的であったと考えられる。そのため茶匠:松浦詮は これまでの作法に執拗に固執することなく、新たな茶道を復 興すべく、全く自由で開放的な空間構成が創造されたものではないかとも考えられるが、これらを裏付ける資料等は見い出せない。ただ本研究によって、閑雲亭はこれまでの主な茶室空間とは異なる新たな空間構成の茶室であることが数量的 解析により示唆された。
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尚、本研究における時代的位置づけにおいては、明治期以降の数寄者好みと言われる茶室空間との比較検討は行っていない。これは先述の通り、明治期以降の茶の湯の衰退によって安土桃山期、江戸初期~中期の茶室文化の継承が危機的状 況にあったことを示し、明治期以降の数寄者好みの歴史的位 置づけが未だ明確ではない事による。今後はこれら数寄者好 みに位置づけられる無事庵・弘仁亭などの茶室空間の調査分析等を進め、建築史学的知見との比較検証を行い、茶室建築 に関する研究に貢献して行きたい。
査読付き論文
論文要旨
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本研究は、旧松浦詮邸茶室「閑雲亭」(長崎県平戸市)の測量データを基に、茶室空間を形成する主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行い、茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴を明らかにすることを目的とする。更に本研究では、これまでの建築史学における茶室空間の意匠的様相や分類・師弟関係などを整理・分析し、その時間系列的構成モデルを作成た上で、この茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴や時代的位置づけを行うものである。
研究の背景
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茶室空間は日本建築において、特徴的独自性をもつ。喫茶、食事、会話という行為がなされる日常的空間でありながら、その行為の順序や仕方が厳密に形式化された茶事を行う点においては非日常的空間とも言える。日常と非日常という背反的な二要素が同時に満たされ、しかも「侘び」や「寂び」、
「数寄」などの日本独自の美意識が集約され、昇華された空間として現代まで継承されている。 -
茶の湯は古く「数寄道」と言われ、『皆自己の作意機転いてならひのなき』を極意とし、個性や創意が重んじられてきた1)。こうしたことが茶室の意匠・表現を多様にしていると考えられる。このような多様さは、建築史学などにおいて残存する文献資料等から茶室作者(以下茶匠) を断定したり、断定できないものに関しても「○○好み」といった、似た意匠などで分類することが行われてきたが、分類基準としては多少あいまいであり、研究者や文献によってもその分類が異なるということが見られた。
研究の目的
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本研究は実測調査した茶室「閑雲亭」に関し、これまで建築史学においてあまり行われてこなかった数量的アプローチを行い、既往の建築史学における知見との違いを検証し、それを補完したり、新たな知見を提示するなど、茶室空間に関する研究に対して貢献することを目的とする。具体的には、茶室( 閑雲亭) を形成する床面積や天井高、床や窓の広さ、柱の数といった主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行うことで、茶室の空間構成の特徴を明らかにし、既往の建築史学的分類との比較検証を行うものである。
建築史学における茶室に関する既往研究
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日本建築における建築史学の研究は、幕末から明治期に始まり、昭和初期には日本独自の伝統的遺構を再評価する動きが高まり茶室が再評価された。中でも茶室論の思想的基盤を形成した先駆的として堀口捨己(1895-1984、建築家)が知られている3)。また太田、中村ら1)は、茶室史の総体を編纂し利休風から武家風、貴族風などの歴史的発展の変遷及び各作風の茶室の特徴をまとめた。船越ら4)は、茶室空間が日本建築の伝統の中で空間としてどう位置づけられるのかという視点で捉え、各時代の茶室空間の特徴を歴史的位置付けを行った。更に中村5)は、草庵茶室から書院茶室への意匠的変遷を時系列で整理し、各年代の茶匠の工夫と創意をまとめた。これらの既往研究では、主に茶匠の作風・好み、師弟関係等で語られ、図1に示すような茶匠の師弟関係が一般的に知られている。そこで本研究では、茶室を「空間」という視点で見つめ直し、建築史学における主要な「茶室空間」の変遷を以下に整理する。
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元来、喫茶の文化は栄西禅師(1141-1215) に始まるとされるが、室町末期には能阿弥と孫の相阿弥が完成させた書院の茶が現れる。安土桃山期に村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、 千利休(1522-1591) からなる侘び茶が完成し、草庵茶室へと繋がる。この侘び茶の空間は珠光の頃は六畳敷であったが、紹鴎が四畳半とし、更に利休は待庵にて二畳の茶室を造り侘びの究極を模索した5)。
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利休後の茶室空間は、利休七哲(十哲) と呼ばれる武将の弟子たちによって多様な展開を見せる。特に古田織部(1544-1615、利休七哲)、小堀遠州(1579-1647、織部の弟子)らによって自由でゆとりのある武家の茶へと移行する。
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織田有楽(1548-1622、利休十哲)は、「如庵」で四畳半の広さに床を組み込み、床脇の壁を斜めにし三角形の板畳(鱗板) を入れ、腰張に暦を貼るなど斬新で自由な茶室空間を創造した5)。
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古田織部は「燕庵」にて三畳台目の茶室に一畳の相伴席が付く茶室空間を創造した。「燕庵」は十カ所もの窓を有し、紹鴎、利休が求めた陰影の茶室空間から、時間の経過と共に様々な光の景色を造り出すことができるという新たな茶室空間を創造した5)。織部、遠州らによる武家の茶は、武家が貴人を迎えた時の作法を考慮した相伴席が設けられた。
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小堀遠州は、「閑雲軒」にて細長い四畳に台目畳の手前座を付けた四畳台目の茶室空間を創造した。また躙口を点前座の対面の壁の中間部に開けることもした。更に織部同様窓を多用したが、必ず手前座の屋根裏に突上窓を切るなど織部との違いも見せた5)。そして草庵の茶室だけではなく、書院の中でも茶の湯の空間を工夫し「密庵」を造った5)。
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細川三斎(1563-1646、利休七哲)は、「四聖坊」にて、四畳半台目の茶室を建てたとあるが現存しない。この茶室空間の特徴は、床前に貴人畳があり、それから続いて矩折りに三畳台目が並ぶ形式で、江戸初期の武家社会を中心に流行した茶室空間の一つの型とされる5)。
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上田宗箇(1563-1650、織部の弟子)は織部に傾倒し、茶室も四畳台目と相伴席に鎖の間と書院が続く構成を取る。
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織部、遠州の茶の湯は、茶室での茶の後、別の座敷へ客を導いてもてなす形式で、新たな茶の湯の形式と言える5)。
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金森宗和(1584-165)は、公家の雅と武家の侘び寂びとを生かし独自の茶風を築いた。宗和好みの「庭玉軒」は、二畳台目の茶室で特徴は中潜にある。また宗和好みの「灯心亭」は三畳台目で違棚があり、棚の中は貼付壁で更に天井は格天井と書院の要素が入れた貴族の茶を体現した5)。
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片桐石州(1605-1673)は「慈光院茶室」にて、二畳台目の茶室空間と二畳の相伴席を持ち、その間に敷居を設け、相伴席の存在を強調した空間を創造した5)。
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松平不昧(1751-1818) は、石州に影響を受けた数寄者で、遠州、三斎にも私淑。「菅田庵」は一畳台目中板入りの上座床を構えた茶室空間で、中板に炉を切らず隅炉を切るなど不昧独自の工夫が見える5)。
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一方利休の死後、嫡男の道安(1546-1607) が本家の堺千家を継ぐが、後に断絶。利休の後妻の連れ子(娘婿) の少庵(1546-1614) によって利休の茶は継承され、少庵の子宗旦(1578-1658) の三人の息子(次男_一翁宗守:武者小路千家、三男_江岑宗左:表千家、四男_仙叟宗室:裏千家)によって、現在まで続く三千家が生まれる。
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宗旦は、「不審菴」にて一畳半の床無しの茶室を創造し、利休の目指した侘茶の復元を目指した5)。
当初の三千家は、基本的に利休の侘び茶の継承を念頭に置いていたであろうが、如心斎天然宗左(1705-1751、表千家7代)、又、玄斎一燈(1719-1771、裏千家8代) 兄弟の時代には「七事式」が考案され、以降、草庵(小間)と広間の茶室を併用して茶の湯を行う仕方が千家の茶に定着し、そ
の後の茶室空間は広間の茶室が普及する。
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中村5)は、この「大寄せの茶」に、茶室空間本来の在り方からずれてきていることに警鐘を鳴らしている。
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明治維新から暫くは茶の湯にとって不幸な時代であったが、やがて「数寄者」と呼ばれる豊富な経済力により新たな茶室を建造したり蒐集する人たちが現れた4)。
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この数寄者として著名は、益田孝(鈍翁:1848-1938、三井物産創業者) や小林一三(逸翁:1873-1957、阪急東宝グループ創業者)、根津嘉一郎(青山:1860-1940、根津財閥創業者) などで、彼らは自らの美意識で茶室空間を創造した。
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この他、精中宗室玄々斎(1810-1877、裏千家11代) は、第一回京都博覧会(1872) にて、建仁寺正伝院に椅子点の席を設け、立礼の始まりとされる。
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また逸翁は茶室「即庵(1936)」にて三畳台目の座敷の二方に土間の客席を設けた茶室空間を創造した。
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他に堀口捨己のビニールによる茶室「美似居(1951)」や谷口吉郎(1904-1979、建築家) の石と煉瓦と木でできた茶室「木石舎(1951)」、東京上野松坂屋で行われた「新日本茶道展」での立礼茶室が試みられたが、伝統はその流れを易々と改めることを容認しなかった。
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以上のように、江戸後期以降、茶室空間は「大寄せの茶」が普及し広間の茶室が普及する一方、少ないながらも明治、大正、昭和と時代の数寄者たちによる茶室の創造も試みられてきたが、現代では新たな展開も見られない状況にある。

図1 茶匠(侘び茶)の特徴と関係図
「閑雲亭」に関する建築史学的既往研究
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閑雲亭は、国の有形文化財として登録(2006.03) されており、1893 年に松浦家第37 代松浦詮(1840-1908) により建てられたとの記録が残るが、1987 年の台風で倒壊した。そこで部材の再利用に努め翌年現在の茶室閑雲亭が再建されたという経緯を持ち6)、現存する図面は見い出せない。
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平戸・松浦資料博物館提供資料7) には、台風被害に合う前の中村昌生氏の解説7) があり、それによると閑雲亭は、梁行二間、桁行三間の寄棟造り茅葺屋根の建物とある。屋根の表面は杉皮で蔽い割竹で押さえてあったという。現在の閑雲亭屋根に、これらの杉皮や割竹は見られない。東(正面) から南は、開放的で腰障子を立てていた。この障子の腰にはすべて大小二つの節を見せた杉板がはめ込んであったようだが、現在は別の障子が立つ。北側の屋根は低く葺き下ろされ、竹垂木の屋根裏の下に蹲
つくばい踞が組まれ、奥に雪隠もある。この北側の低い土間庇に面して躙口が開けられている。
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内部は一面に叉首組の小屋裏を表し、茶室は四畳枡床、すなわち四畳半の隅半畳を床にした間取り。
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床の左の一畳が点前座で炉は向切。この点前座の天井だけ、約六尺五寸程の高さに葭簀の天井を張る。その廻縁は、四方とも竹を用いている。
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床柱は上部が三つに枝分かれした曲木で、水平に伸びた枝が落掛となっており、点前座の天井の竹の縁も小枝の分れ目に止まっている。有名な夕佳亭(京都・鹿苑寺金閣の北東方の高所にある茶屋)の南天の床柱に勝る奇構と言える。
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風炉先に当たる床脇は、下部を吹抜き、不揃いの高さの竹を並べ貫を一筋入れている。点前座の上
だけ天井を張ったのは、桂離宮月波楼の一の間の扱いと同じという。茶室の南には次の間六畳が襖四本でまじ切られていたようだが、現在は取り外されている。 -
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中村はこの閑雲亭を自然木の使い方が大胆で、実に軽妙で陽気な技法が駆使され、風流で京風の数寄屋のもたない陽気な詩情にあふれていると評価した7)。
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また既往研究8) によれば、松浦詮は、松浦家第26代鎮信によって大成された茶道鎮信流を学び、深く考究したとある。この鎮信流を大成させた鎮信は、数寄大名として名高く、はじめ茶の湯を多賀左近、金森宗和に学ぶ。その後、片桐石州の茶事に没入し、石州流を基本とし、自ら新たに鎮信流を創始したとある。このことから鎮信流は、貴族好み(書院風)に位置付けられる。


図2 茶室閑雲亭の平面図と展開図
茶室に関する空間分析の既往研究
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茶室の空間分析の既往研究として北川ら9)の研究がある。これは茶室の内部空間のある点から視線の遮蔽体までの距離として定義された〈視深度〉に関し、亭主と正客との視深度を測定し、茶匠による空間的広がりを考察したものである。
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また佐藤ら10)は茶室の内部立面を面と線の構成ととらえ、書院と草庵の立面構成の違いを画面分割の手法を用いて分析した。水谷ら11)は、壁や床面、天井などの構成部材により「囲う」ことで創出された内部空間に人間が入り「包まれる」ことにより表出される空間の在り方を〈空間包囲性〉と定義し、亭主と正客の位置を決定づける重要な要素となる畳の敷き方、炉の位置などにとらわれず〈視深度〉から見た〈空間包囲性〉の特徴を示した。
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更に伊藤ら12、13)は、茶室の構成要素の物理量に着目し、多変量解析による分析によって、要素間の関係性や茶室の類型的構造を数量的に把握し、建築史学における分類との比較検証を行っている。
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本研究は、この伊藤ら12、13)の研究の延長線上に位置するもので、伊藤らの知見を基に閑雲亭の空間分析を行うものである。すなわち本研究の新規性は、既往研究12、13)における数量的アプローチの手法を用い、これまで建築史学的範疇でしか語られていなかった九州地方における茶室「閑雲亭」に対し空間分析を行い、数量的新たな知見を示し、建築史学による草庵茶室の大きな時代の流れの中での位置づけを行う点にある。
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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伊藤ら12、13)の研究では、安土桃山時代から昭和初期までの国宝や重要文化材に指定されている、あるいは建築史学的に重要とされる代表的な草庵茶室57 例の構成要素及びその物理量を集計し、多変量解析を行っている。本研究は「閑雲亭」の空間構成が、これまでの建築史学による茶室空間の変遷における位置付けを数量的アプローチによって行う事を目的とするため、各時代における作風の代表的茶室空間に着目し、伊藤ら12、13)の57 例中9 例を選んだ。
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すなわち「待庵」は利休による侘び茶の極致の空間として、「燕庵」は織部による利休の陰影の茶室から明るい空間への転換点の空間として、「如庵」は利休以降の自由な空間の先進事例として、 「庭玉軒」「灯心亭」は宗和による貴族好みの空間として、「今日庵」「官休庵」は三千家の基本的茶室空間として、また「蓑庵」は三千家における七事式導入着前の千家の草庵茶室として、そして「菅田庵」は不昧による利休の侘び茶空間への再希求の空間として選んだ。
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更に閑雲亭を加え計10例(図3参照)に関して空間を構成する主な構成要素の物理量を多変量解析によって分析する。

図3 分析に用いた茶室平面図
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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表1には、各茶室の対象構成要素とその物理量を示す。 No.1~9における茶室の主な構成要素の物理量は、既往研究 13)より転載し注2)、No.10「閑雲亭」においては、既往研究2)の実測図面を基に、既往研究 13)に準じて小数点4位までとし算出した注3)。その他の袖壁や窓面積、襖障子、床面積、 天井高などもすべて既往研究 13)に準じて算出した注 4)。
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これらのデータを統計ソフト JMP18 を用いてクラスター 分析及び主成分分析を行った。
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表1のような単位や桁が異なるデータから多変量解析を行うと、数字が一桁違うだけで大きく分散に影響を及ぼす可能性がある。そのため統計ソフト上で平均値が 0、分散が 1 になるように出力を標準化し解析を行った注5)。
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またクラスター分析においては、最も近いデータ同士を順にまとめる階層的クラスター分析で、 分類感度が高くデータの細かな違いを検出しやすい Ward 法を用いた。
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このクラスター分析のデンドログラム(樹形図)を図5に示す。 図5を見ると、距離 3.212 では6つのクラスターが確認 できるが、「閑雲亭」は距離 5.528 になってやっと他の9つ の茶室と結合し一つのクラスターになるまで、他とのクラ スターを形成できておらず、「閑雲亭」の空間構成の特異性 を示す結果となった。この結果は、先の建築史学における 既往研究では確認できないもので、本研究における大きな 成果と考えられる。

多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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次に主成分分析において、各主成分係数及び因子負荷量、 寄与率などを表2に示す。なお表1において「付書院」に関しては、No.1~10 のいずれの茶室にも存在していないため、欠測値として算出されていない。
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表2の主成分係数を見ると、第一主成分においては、「角柱」と「天井高」に正方向に数値が大きく、第二主成分においては、「床」と「床面積」に正方向、「向板」に負の方向に数値が大きく、第一主成分を「垂直方向」、第二主成分 を「平面の規模」の成分と命名した。
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更に、第一主成分と第二主成分における主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロットを図6に示す。スコアプロットは、第一主成分分析のスコアと第二主成分分析 のスコアとの関係をグラフ(図6左図)にしたものであり、 因子負荷量プロットは、第一主成分の各変数の係数と第二主成分の係数との関係をグラフ(図6右図)にしたもので ある。この係数は、各主成分の固有ベクトルを構成する値で、成分の各変数の相対的な重みを表す。
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図6における左図スコアプロットを見ると、「閑雲亭」が第一主成分:垂直方向において、他の茶室とは明らかに異 なる高い数値を示しているのが分かる。この左図スコアプロットには、図6の6つのクラスターを示す範囲を破線で 示している。これを見ると、クラスター1及び2、スコアプロット図の中心付近に密集して分布している事が分かり、図5のデンドログラムの距離の近さを示すものでもある。
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クラスター3~6は、それぞれ四方に散らばった分布が見られ、それぞれの空間構成の特異性が分かる。また、同右図の因子負荷量プロットを見ると第一主成分:垂直方 向に関連が高い空間要素は「天井高」「角柱」「障子」「床面積」であることが分かる。
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一方「窓」「中板」の要素は、逆 に関連が低い事が示された。これら要素の内、「天井高」「角 柱」に関しては第二主成分:平面の規模にはあまり影響せず、むしろ関連が低いことが示された。「障子」「床面積」 に関しては、第二主成分:平面の規模に関連の高さが見られ、 更に最も関連が見られる要素が「床」であり、逆に最も関 連が低いのは「向板」であった。
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ここで、図6におけるスコアプロットと因子負荷量プロッ トを組み合わせたものを図7に示す。図7を見ると、閑雲亭が空間の構成要素のうち「天井高」と「角柱」に特徴があり、第一主成分:垂直方向に大きく 関連しており、他の茶室との大きな違いとして示されてい るのが数量的にはっきりと分かる。この結果は建築史学の 知見において天井高が高い特出性は語られていたものの、 角柱との関連性は直接的に語られていない。ちなみに建築 史学的知見において、閑雲亭が貴族好み(書院風)に類する作風に属するとしていたのは、先述の通り作者松浦詮が、鎮信流を深く考究し、またその鎮信流を大成させた鎮信が、 宗和や石州に学んだことから貴族好み(書院風)と考えられていたが、本研究によって「角柱」が特徴的であるとの 分析結果が数量的に示されたことは書院風の特徴と合致し、 建築史学的知見を数量的分析によって補完できたと言え、 本研究における一つの成果と言える。又クラスター3、4、 5に分類された菅田庵、灯心亭、今日庵は、それぞれ「中板」「飾棚」「向板」に特徴があるのが分かる。これは図3の各平面図からも確認でき、建築史学的知見との合致が見られた。

図6 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロット

図7 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量プロットの組合せ

図8 茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
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このような本研究における空間分析の結果と、これまでの建築史学的知見を合わせ、空間構成の特徴と時代推移を 示す構成モデルを図8を作成した。縦軸には時間軸を、横 軸には茶室の内部空間の広さを取り、茶室の空間的特徴に 着目した構成モデルとした。
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図8は、基本的に建築史学における知見を基に作成して いるが、その中でも本研究における空間分析(クラスター分析)の結果を追記し、建築史学との違いを示している。例えば本研究の空間分析によれば、千家の茶室においても「 日庵」と「官休庵」は、構成要素の「向板」が特徴的な「今日庵」の独自性が際立ち、空間構成的には別のクラスター として解析されている。このことは本研究における新たな 知見と言える。また建築史学においては貴族好み(書院風) の範疇と考えられる「庭玉軒」と「灯心亭」であるが、本 研究における空間分析の結果「灯心亭」が構成要素の「飾棚」に特徴があり、「庭玉軒」は「待庵」の草庵(侘び)茶室や「官 休庵」「蓑庵」などの千家の茶室と同じクラスターとして解 析されていることから、建築史学的知見とは異なり、空間 構成的な視点での新たな知見が示唆されたものと言える。 更に建築史学においては武家好みの範疇とされた「如庵」「燕庵」、図5においても同じクラスターとして解析され建築史学と本研究における空間分析の結果の合致を得た。ま た建築史学的には、武家好みの遠州、三斎に私淑したとさ れる不昧の「菅田庵」は、「如庵」「燕庵」とは別のクラスター として解析され、本研究による新たな知見と言える。
まとめ
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これまで茶室建築は、茶匠の師弟関係から語られることが多く、建築的意匠に関しても、茶匠ごとの「好み」による分類が行われてきたが、これらは信頼できる資料が現存 しない場合、その判断はある意味あいまいであった。
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そこで本研究では、茶室内部空間における意匠的様相を、空間を構成する主要な要素(広さ・高さ・窓など)を数量化し、 多変量解析を行うことで、これまでの建築史学における茶 室空間における意匠的様相や分類などと比較検証し、その違いや共通点を検証した。その結果、閑雲亭が「天井高」「角柱」の構成要素が特出した空間的特徴を示し、クラスター6として単独で分類され、貴族好み( 書院風)の茶室とは 別の分類として解析されたことは、本研究における新たな知見と言える。
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閑雲亭は建築史学的には茶匠松浦詮が、鎮信流を学び、深く考究したとあることから、貴族好み(書 院風)の系統かとも考えられたが、空間分析の結果、貴族 好みの代表的茶室「庭玉軒」「灯心亭」とも異なり、その他 の茶室の空間構成とも異なる特徴的な空間構成であることが分かった。ただ図7より閑雲亭は「角柱」が特徴的な構 成要素として示されており、これは貴族好み(書院風)の特徴的要素の一つであることから、全く貴族好み(書院風)と異なるものが造られたものでもない事が読み取れる。
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閑雲亭のような天井の高い茶室空間は珍しく、京都周辺地域に現存する主要な茶室は例に乏しい。ただ小堀遠州好みとされる傘亭(作者不明:京都高台寺)に見られるものの既 往研究 13)にある57 の主要な茶室にも例が見られない。このような特徴的空間構成を示す閑雲亭が、既存の主要な茶室とは著しく異なる空間として数量的解析がなされ、また 同時に、建築史学的知見と合致する結果もいくつか得られたことで、これまでの建築史的知見を更に補完するものであると言え、本研究の意義を示すものと言える。
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閑雲亭が建設された 1893年(明治26年 )は、建築史学的には茶道が衰退していた時期である。一方建設地である平戸市は、鎖国の時代より西洋文化との交流が見られ、その場所 性を考慮すると、西洋的あるいは近代的な感覚が他の地域よりも先進的であったと考えられる。そのため茶匠:松浦詮は これまでの作法に執拗に固執することなく、新たな茶道を復 興すべく、全く自由で開放的な空間構成が創造されたものではないかとも考えられるが、これらを裏付ける資料等は見い出せない。ただ本研究によって、閑雲亭はこれまでの主な茶室空間とは異なる新たな空間構成の茶室であることが数量的 解析により示唆された。
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尚、本研究における時代的位置づけにおいては、明治期以降の数寄者好みと言われる茶室空間との比較検討は行っていない。これは先述の通り、明治期以降の茶の湯の衰退によって安土桃山期、江戸初期~中期の茶室文化の継承が危機的状 況にあったことを示し、明治期以降の数寄者好みの歴史的位 置づけが未だ明確ではない事による。今後はこれら数寄者好 みに位置づけられる無事庵・弘仁亭などの茶室空間の調査分析等を進め、建築史学的知見との比較検証を行い、茶室建築 に関する研究に貢献して行きたい。
査読付き論文
論文要旨
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本研究は、旧松浦詮邸茶室「閑雲亭」(長崎県平戸市)の測量データを基に、茶室空間を形成する主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行い、茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴を明らかにすることを目的とする。更に本研究では、これまでの建築史学における茶室空間の意匠的様相や分類・師弟関係などを整理・分析し、その時間系列的構成モデルを作成た上で、この茶室「閑雲亭」の空間構成の特徴や時代的位置づけを行うものである。
研究の背景
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茶室空間は日本建築において、特徴的独自性をもつ。喫茶、食事、会話という行為がなされる日常的空間でありながら、その行為の順序や仕方が厳密に形式化された茶事を行う点においては非日常的空間とも言える。日常と非日常という背反的な二要素が同時に満たされ、しかも「侘び」や「寂び」、
「数寄」などの日本独自の美意識が集約され、昇華された空間として現代まで継承されている。 -
茶の湯は古く「数寄道」と言われ、『皆自己の作意機転いてならひのなき』を極意とし、個性や創意が重んじられてきた1)。こうしたことが茶室の意匠・表現を多様にしていると考えられる。このような多様さは、建築史学などにおいて残存する文献資料等から茶室作者(以下茶匠) を断定したり、断定できないものに関しても「○○好み」といった、似た意匠などで分類することが行われてきたが、分類基準としては多少あいまいであり、研究者や文献によってもその分類が異なるということが見られた。
研究の目的
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本研究は実測調査した茶室「閑雲亭」に関し、これまで建築史学においてあまり行われてこなかった数量的アプローチを行い、既往の建築史学における知見との違いを検証し、それを補完したり、新たな知見を提示するなど、茶室空間に関する研究に対して貢献することを目的とする。具体的には、茶室( 閑雲亭) を形成する床面積や天井高、床や窓の広さ、柱の数といった主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行うことで、茶室の空間構成の特徴を明らかにし、既往の建築史学的分類との比較検証を行うものである。
建築史学における茶室に関する既往研究
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日本建築における建築史学の研究は、幕末から明治期に始まり、昭和初期には日本独自の伝統的遺構を再評価する動きが高まり茶室が再評価された。中でも茶室論の思想的基盤を形成した先駆的として堀口捨己(1895-1984、建築家)が知られている3)。また太田、中村ら1)は、茶室史の総体を編纂し利休風から武家風、貴族風などの歴史的発展の変遷及び各作風の茶室の特徴をまとめた。船越ら4)は、茶室空間が日本建築の伝統の中で空間としてどう位置づけられるのかという視点で捉え、各時代の茶室空間の特徴を歴史的位置付けを行った。更に中村5)は、草庵茶室から書院茶室への意匠的変遷を時系列で整理し、各年代の茶匠の工夫と創意をまとめた。これらの既往研究では、主に茶匠の作風・好み、師弟関係等で語られ、図1に示すような茶匠の師弟関係が一般的に知られている。そこで本研究では、茶室を「空間」という視点で見つめ直し、建築史学における主要な「茶室空間」の変遷を以下に整理する。
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元来、喫茶の文化は栄西禅師(1141-1215) に始まるとされるが、室町末期には能阿弥と孫の相阿弥が完成させた書院の茶が現れる。安土桃山期に村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、 千利休(1522-1591) からなる侘び茶が完成し、草庵茶室へと繋がる。この侘び茶の空間は珠光の頃は六畳敷であったが、紹鴎が四畳半とし、更に利休は待庵にて二畳の茶室を造り侘びの究極を模索した5)。
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利休後の茶室空間は、利休七哲(十哲) と呼ばれる武将の弟子たちによって多様な展開を見せる。特に古田織部(1544-1615、利休七哲)、小堀遠州(1579-1647、織部の弟子)らによって自由でゆとりのある武家の茶へと移行する。
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織田有楽(1548-1622、利休十哲)は、「如庵」で四畳半の広さに床を組み込み、床脇の壁を斜めにし三角形の板畳(鱗板) を入れ、腰張に暦を貼るなど斬新で自由な茶室空間を創造した5)。
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古田織部は「燕庵」にて三畳台目の茶室に一畳の相伴席が付く茶室空間を創造した。「燕庵」は十カ所もの窓を有し、紹鴎、利休が求めた陰影の茶室空間から、時間の経過と共に様々な光の景色を造り出すことができるという新たな茶室空間を創造した5)。織部、遠州らによる武家の茶は、武家が貴人を迎えた時の作法を考慮した相伴席が設けられた。
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小堀遠州は、「閑雲軒」にて細長い四畳に台目畳の手前座を付けた四畳台目の茶室空間を創造した。また躙口を点前座の対面の壁の中間部に開けることもした。更に織部同様窓を多用したが、必ず手前座の屋根裏に突上窓を切るなど織部との違いも見せた5)。そして草庵の茶室だけではなく、書院の中でも茶の湯の空間を工夫し「密庵」を造った5)。
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細川三斎(1563-1646、利休七哲)は、「四聖坊」にて、四畳半台目の茶室を建てたとあるが現存しない。この茶室空間の特徴は、床前に貴人畳があり、それから続いて矩折りに三畳台目が並ぶ形式で、江戸初期の武家社会を中心に流行した茶室空間の一つの型とされる5)。
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上田宗箇(1563-1650、織部の弟子)は織部に傾倒し、茶室も四畳台目と相伴席に鎖の間と書院が続く構成を取る。
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織部、遠州の茶の湯は、茶室での茶の後、別の座敷へ客を導いてもてなす形式で、新たな茶の湯の形式と言える5)。
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金森宗和(1584-165)は、公家の雅と武家の侘び寂びとを生かし独自の茶風を築いた。宗和好みの「庭玉軒」は、二畳台目の茶室で特徴は中潜にある。また宗和好みの「灯心亭」は三畳台目で違棚があり、棚の中は貼付壁で更に天井は格天井と書院の要素が入れた貴族の茶を体現した5)。
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片桐石州(1605-1673)は「慈光院茶室」にて、二畳台目の茶室空間と二畳の相伴席を持ち、その間に敷居を設け、相伴席の存在を強調した空間を創造した5)。
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松平不昧(1751-1818) は、石州に影響を受けた数寄者で、遠州、三斎にも私淑。「菅田庵」は一畳台目中板入りの上座床を構えた茶室空間で、中板に炉を切らず隅炉を切るなど不昧独自の工夫が見える5)。
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一方利休の死後、嫡男の道安(1546-1607) が本家の堺千家を継ぐが、後に断絶。利休の後妻の連れ子(娘婿) の少庵(1546-1614) によって利休の茶は継承され、少庵の子宗旦(1578-1658) の三人の息子(次男_一翁宗守:武者小路千家、三男_江岑宗左:表千家、四男_仙叟宗室:裏千家)によって、現在まで続く三千家が生まれる。
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宗旦は、「不審菴」にて一畳半の床無しの茶室を創造し、利休の目指した侘茶の復元を目指した5)。
当初の三千家は、基本的に利休の侘び茶の継承を念頭に置いていたであろうが、如心斎天然宗左(1705-1751、表千家7代)、又、玄斎一燈(1719-1771、裏千家8代) 兄弟の時代には「七事式」が考案され、以降、草庵(小間)と広間の茶室を併用して茶の湯を行う仕方が千家の茶に定着し、そ
の後の茶室空間は広間の茶室が普及する。
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中村5)は、この「大寄せの茶」に、茶室空間本来の在り方からずれてきていることに警鐘を鳴らしている。
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明治維新から暫くは茶の湯にとって不幸な時代であったが、やがて「数寄者」と呼ばれる豊富な経済力により新たな茶室を建造したり蒐集する人たちが現れた4)。
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この数寄者として著名は、益田孝(鈍翁:1848-1938、三井物産創業者) や小林一三(逸翁:1873-1957、阪急東宝グループ創業者)、根津嘉一郎(青山:1860-1940、根津財閥創業者) などで、彼らは自らの美意識で茶室空間を創造した。
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この他、精中宗室玄々斎(1810-1877、裏千家11代) は、第一回京都博覧会(1872) にて、建仁寺正伝院に椅子点の席を設け、立礼の始まりとされる。
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また逸翁は茶室「即庵(1936)」にて三畳台目の座敷の二方に土間の客席を設けた茶室空間を創造した。
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他に堀口捨己のビニールによる茶室「美似居(1951)」や谷口吉郎(1904-1979、建築家) の石と煉瓦と木でできた茶室「木石舎(1951)」、東京上野松坂屋で行われた「新日本茶道展」での立礼茶室が試みられたが、伝統はその流れを易々と改めることを容認しなかった。
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以上のように、江戸後期以降、茶室空間は「大寄せの茶」が普及し広間の茶室が普及する一方、少ないながらも明治、大正、昭和と時代の数寄者たちによる茶室の創造も試みられてきたが、現代では新たな展開も見られない状況にある。

図1 茶匠(侘び茶)の特徴と関係図
「閑雲亭」に関する建築史学的既往研究
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閑雲亭は、国の有形文化財として登録(2006.03) されており、1893 年に松浦家第37 代松浦詮(1840-1908) により建てられたとの記録が残るが、1987 年の台風で倒壊した。そこで部材の再利用に努め翌年現在の茶室閑雲亭が再建されたという経緯を持ち6)、現存する図面は見い出せない。
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平戸・松浦資料博物館提供資料7) には、台風被害に合う前の中村昌生氏の解説7) があり、それによると閑雲亭は、梁行二間、桁行三間の寄棟造り茅葺屋根の建物とある。屋根の表面は杉皮で蔽い割竹で押さえてあったという。現在の閑雲亭屋根に、これらの杉皮や割竹は見られない。東(正面) から南は、開放的で腰障子を立てていた。この障子の腰にはすべて大小二つの節を見せた杉板がはめ込んであったようだが、現在は別の障子が立つ。北側の屋根は低く葺き下ろされ、竹垂木の屋根裏の下に蹲
つくばい踞が組まれ、奥に雪隠もある。この北側の低い土間庇に面して躙口が開けられている。
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内部は一面に叉首組の小屋裏を表し、茶室は四畳枡床、すなわち四畳半の隅半畳を床にした間取り。
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床の左の一畳が点前座で炉は向切。この点前座の天井だけ、約六尺五寸程の高さに葭簀の天井を張る。その廻縁は、四方とも竹を用いている。
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床柱は上部が三つに枝分かれした曲木で、水平に伸びた枝が落掛となっており、点前座の天井の竹の縁も小枝の分れ目に止まっている。有名な夕佳亭(京都・鹿苑寺金閣の北東方の高所にある茶屋)の南天の床柱に勝る奇構と言える。
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風炉先に当たる床脇は、下部を吹抜き、不揃いの高さの竹を並べ貫を一筋入れている。点前座の上
だけ天井を張ったのは、桂離宮月波楼の一の間の扱いと同じという。茶室の南には次の間六畳が襖四本でまじ切られていたようだが、現在は取り外されている。 -
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中村はこの閑雲亭を自然木の使い方が大胆で、実に軽妙で陽気な技法が駆使され、風流で京風の数寄屋のもたない陽気な詩情にあふれていると評価した7)。
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また既往研究8) によれば、松浦詮は、松浦家第26代鎮信によって大成された茶道鎮信流を学び、深く考究したとある。この鎮信流を大成させた鎮信は、数寄大名として名高く、はじめ茶の湯を多賀左近、金森宗和に学ぶ。その後、片桐石州の茶事に没入し、石州流を基本とし、自ら新たに鎮信流を創始したとある。このことから鎮信流は、貴族好み(書院風)に位置付けられる。


図2 茶室閑雲亭の平面図と展開図
茶室に関する空間分析の既往研究
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茶室の空間分析の既往研究として北川ら9)の研究がある。これは茶室の内部空間のある点から視線の遮蔽体までの距離として定義された〈視深度〉に関し、亭主と正客との視深度を測定し、茶匠による空間的広がりを考察したものである。
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また佐藤ら10)は茶室の内部立面を面と線の構成ととらえ、書院と草庵の立面構成の違いを画面分割の手法を用いて分析した。水谷ら11)は、壁や床面、天井などの構成部材により「囲う」ことで創出された内部空間に人間が入り「包まれる」ことにより表出される空間の在り方を〈空間包囲性〉と定義し、亭主と正客の位置を決定づける重要な要素となる畳の敷き方、炉の位置などにとらわれず〈視深度〉から見た〈空間包囲性〉の特徴を示した。
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更に伊藤ら12、13)は、茶室の構成要素の物理量に着目し、多変量解析による分析によって、要素間の関係性や茶室の類型的構造を数量的に把握し、建築史学における分類との比較検証を行っている。
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本研究は、この伊藤ら12、13)の研究の延長線上に位置するもので、伊藤らの知見を基に閑雲亭の空間分析を行うものである。すなわち本研究の新規性は、既往研究12、13)における数量的アプローチの手法を用い、これまで建築史学的範疇でしか語られていなかった九州地方における茶室「閑雲亭」に対し空間分析を行い、数量的新たな知見を示し、建築史学による草庵茶室の大きな時代の流れの中での位置づけを行う点にある。
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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伊藤ら12、13)の研究では、安土桃山時代から昭和初期までの国宝や重要文化材に指定されている、あるいは建築史学的に重要とされる代表的な草庵茶室57 例の構成要素及びその物理量を集計し、多変量解析を行っている。本研究は「閑雲亭」の空間構成が、これまでの建築史学による茶室空間の変遷における位置付けを数量的アプローチによって行う事を目的とするため、各時代における作風の代表的茶室空間に着目し、伊藤ら12、13)の57 例中9 例を選んだ。
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すなわち「待庵」は利休による侘び茶の極致の空間として、「燕庵」は織部による利休の陰影の茶室から明るい空間への転換点の空間として、「如庵」は利休以降の自由な空間の先進事例として、 「庭玉軒」「灯心亭」は宗和による貴族好みの空間として、「今日庵」「官休庵」は三千家の基本的茶室空間として、また「蓑庵」は三千家における七事式導入着前の千家の草庵茶室として、そして「菅田庵」は不昧による利休の侘び茶空間への再希求の空間として選んだ。
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更に閑雲亭を加え計10例(図3参照)に関して空間を構成する主な構成要素の物理量を多変量解析によって分析する。

図3 分析に用いた茶室平面図
多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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表1には、各茶室の対象構成要素とその物理量を示す。 No.1~9における茶室の主な構成要素の物理量は、既往研究 13)より転載し注2)、No.10「閑雲亭」においては、既往研究2)の実測図面を基に、既往研究 13)に準じて小数点4位までとし算出した注3)。その他の袖壁や窓面積、襖障子、床面積、 天井高などもすべて既往研究 13)に準じて算出した注 4)。
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これらのデータを統計ソフト JMP18 を用いてクラスター 分析及び主成分分析を行った。
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表1のような単位や桁が異なるデータから多変量解析を行うと、数字が一桁違うだけで大きく分散に影響を及ぼす可能性がある。そのため統計ソフト上で平均値が 0、分散が 1 になるように出力を標準化し解析を行った注5)。
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またクラスター分析においては、最も近いデータ同士を順にまとめる階層的クラスター分析で、 分類感度が高くデータの細かな違いを検出しやすい Ward 法を用いた。
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このクラスター分析のデンドログラム(樹形図)を図5に示す。 図5を見ると、距離 3.212 では6つのクラスターが確認 できるが、「閑雲亭」は距離 5.528 になってやっと他の9つ の茶室と結合し一つのクラスターになるまで、他とのクラ スターを形成できておらず、「閑雲亭」の空間構成の特異性 を示す結果となった。この結果は、先の建築史学における 既往研究では確認できないもので、本研究における大きな 成果と考えられる。

多変量解析による「閑雲亭」の空間分析
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次に主成分分析において、各主成分係数及び因子負荷量、 寄与率などを表2に示す。なお表1において「付書院」に関しては、No.1~10 のいずれの茶室にも存在していないため、欠測値として算出されていない。
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表2の主成分係数を見ると、第一主成分においては、「角柱」と「天井高」に正方向に数値が大きく、第二主成分においては、「床」と「床面積」に正方向、「向板」に負の方向に数値が大きく、第一主成分を「垂直方向」、第二主成分 を「平面の規模」の成分と命名した。
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更に、第一主成分と第二主成分における主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロットを図6に示す。スコアプロットは、第一主成分分析のスコアと第二主成分分析 のスコアとの関係をグラフ(図6左図)にしたものであり、 因子負荷量プロットは、第一主成分の各変数の係数と第二主成分の係数との関係をグラフ(図6右図)にしたもので ある。この係数は、各主成分の固有ベクトルを構成する値で、成分の各変数の相対的な重みを表す。
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図6における左図スコアプロットを見ると、「閑雲亭」が第一主成分:垂直方向において、他の茶室とは明らかに異 なる高い数値を示しているのが分かる。この左図スコアプロットには、図6の6つのクラスターを示す範囲を破線で 示している。これを見ると、クラスター1及び2、スコアプロット図の中心付近に密集して分布している事が分かり、図5のデンドログラムの距離の近さを示すものでもある。
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クラスター3~6は、それぞれ四方に散らばった分布が見られ、それぞれの空間構成の特異性が分かる。また、同右図の因子負荷量プロットを見ると第一主成分:垂直方 向に関連が高い空間要素は「天井高」「角柱」「障子」「床面積」であることが分かる。
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一方「窓」「中板」の要素は、逆 に関連が低い事が示された。これら要素の内、「天井高」「角 柱」に関しては第二主成分:平面の規模にはあまり影響せず、むしろ関連が低いことが示された。「障子」「床面積」 に関しては、第二主成分:平面の規模に関連の高さが見られ、 更に最も関連が見られる要素が「床」であり、逆に最も関 連が低いのは「向板」であった。
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ここで、図6におけるスコアプロットと因子負荷量プロッ トを組み合わせたものを図7に示す。図7を見ると、閑雲亭が空間の構成要素のうち「天井高」と「角柱」に特徴があり、第一主成分:垂直方向に大きく 関連しており、他の茶室との大きな違いとして示されてい るのが数量的にはっきりと分かる。この結果は建築史学の 知見において天井高が高い特出性は語られていたものの、 角柱との関連性は直接的に語られていない。ちなみに建築 史学的知見において、閑雲亭が貴族好み(書院風)に類する作風に属するとしていたのは、先述の通り作者松浦詮が、鎮信流を深く考究し、またその鎮信流を大成させた鎮信が、 宗和や石州に学んだことから貴族好み(書院風)と考えられていたが、本研究によって「角柱」が特徴的であるとの 分析結果が数量的に示されたことは書院風の特徴と合致し、 建築史学的知見を数量的分析によって補完できたと言え、 本研究における一つの成果と言える。又クラスター3、4、 5に分類された菅田庵、灯心亭、今日庵は、それぞれ「中板」「飾棚」「向板」に特徴があるのが分かる。これは図3の各平面図からも確認でき、建築史学的知見との合致が見られた。

図6 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量のプロット

図7 主成分得点のスコアプロットと因子負荷量プロットの組合せ

図8 茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
茶室の空間構成と時代推移の構成モデル
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このような本研究における空間分析の結果と、これまでの建築史学的知見を合わせ、空間構成の特徴と時代推移を 示す構成モデルを図8を作成した。縦軸には時間軸を、横 軸には茶室の内部空間の広さを取り、茶室の空間的特徴に 着目した構成モデルとした。
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図8は、基本的に建築史学における知見を基に作成して いるが、その中でも本研究における空間分析(クラスター分析)の結果を追記し、建築史学との違いを示している。例えば本研究の空間分析によれば、千家の茶室においても「 日庵」と「官休庵」は、構成要素の「向板」が特徴的な「今日庵」の独自性が際立ち、空間構成的には別のクラスター として解析されている。このことは本研究における新たな 知見と言える。また建築史学においては貴族好み(書院風) の範疇と考えられる「庭玉軒」と「灯心亭」であるが、本 研究における空間分析の結果「灯心亭」が構成要素の「飾棚」に特徴があり、「庭玉軒」は「待庵」の草庵(侘び)茶室や「官 休庵」「蓑庵」などの千家の茶室と同じクラスターとして解 析されていることから、建築史学的知見とは異なり、空間 構成的な視点での新たな知見が示唆されたものと言える。 更に建築史学においては武家好みの範疇とされた「如庵」「燕庵」、図5においても同じクラスターとして解析され建築史学と本研究における空間分析の結果の合致を得た。ま た建築史学的には、武家好みの遠州、三斎に私淑したとさ れる不昧の「菅田庵」は、「如庵」「燕庵」とは別のクラスター として解析され、本研究による新たな知見と言える。
まとめ
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これまで茶室建築は、茶匠の師弟関係から語られることが多く、建築的意匠に関しても、茶匠ごとの「好み」による分類が行われてきたが、これらは信頼できる資料が現存 しない場合、その判断はある意味あいまいであった。
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そこで本研究では、茶室内部空間における意匠的様相を、空間を構成する主要な要素(広さ・高さ・窓など)を数量化し、 多変量解析を行うことで、これまでの建築史学における茶 室空間における意匠的様相や分類などと比較検証し、その違いや共通点を検証した。その結果、閑雲亭が「天井高」「角柱」の構成要素が特出した空間的特徴を示し、クラスター6として単独で分類され、貴族好み( 書院風)の茶室とは 別の分類として解析されたことは、本研究における新たな知見と言える。
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閑雲亭は建築史学的には茶匠松浦詮が、鎮信流を学び、深く考究したとあることから、貴族好み(書 院風)の系統かとも考えられたが、空間分析の結果、貴族 好みの代表的茶室「庭玉軒」「灯心亭」とも異なり、その他 の茶室の空間構成とも異なる特徴的な空間構成であることが分かった。ただ図7より閑雲亭は「角柱」が特徴的な構 成要素として示されており、これは貴族好み(書院風)の特徴的要素の一つであることから、全く貴族好み(書院風)と異なるものが造られたものでもない事が読み取れる。
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閑雲亭のような天井の高い茶室空間は珍しく、京都周辺地域に現存する主要な茶室は例に乏しい。ただ小堀遠州好みとされる傘亭(作者不明:京都高台寺)に見られるものの既 往研究 13)にある57 の主要な茶室にも例が見られない。このような特徴的空間構成を示す閑雲亭が、既存の主要な茶室とは著しく異なる空間として数量的解析がなされ、また 同時に、建築史学的知見と合致する結果もいくつか得られたことで、これまでの建築史的知見を更に補完するものであると言え、本研究の意義を示すものと言える。
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閑雲亭が建設された 1893年(明治26年 )は、建築史学的には茶道が衰退していた時期である。一方建設地である平戸市は、鎖国の時代より西洋文化との交流が見られ、その場所 性を考慮すると、西洋的あるいは近代的な感覚が他の地域よりも先進的であったと考えられる。そのため茶匠:松浦詮は これまでの作法に執拗に固執することなく、新たな茶道を復 興すべく、全く自由で開放的な空間構成が創造されたものではないかとも考えられるが、これらを裏付ける資料等は見い出せない。ただ本研究によって、閑雲亭はこれまでの主な茶室空間とは異なる新たな空間構成の茶室であることが数量的 解析により示唆された。
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尚、本研究における時代的位置づけにおいては、明治期以降の数寄者好みと言われる茶室空間との比較検討は行っていない。これは先述の通り、明治期以降の茶の湯の衰退によって安土桃山期、江戸初期~中期の茶室文化の継承が危機的状 況にあったことを示し、明治期以降の数寄者好みの歴史的位 置づけが未だ明確ではない事による。今後はこれら数寄者好 みに位置づけられる無事庵・弘仁亭などの茶室空間の調査分析等を進め、建築史学的知見との比較検証を行い、茶室建築 に関する研究に貢献して行きたい。
旧松浦詮邸茶室「閑雲亭」の空間分析に関する基礎的研究
-物理量データを用いた多変量解析による茶室建築の空間分析-
髙橋 浩伸、日本インテリア学会論文報告集 35号、pp.65-72、2025年3月
3DLS を用いた茶室「仰松軒」の内部空間調査報告
-〈本歌〉天龍寺塔頭真乗院茶室の起こし絵図との比較検証-
髙橋 浩伸、日本建築学会技術報告集 第32巻 第81号、pp.840-845、2026年6月
論文要旨
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本研究は、茶室「仰松軒」に関して3DLSを用いて実測調査を行い、その計測値から2DCAD図面を作成した。これは詳細な寸法の記載されたデジタルデータであり、茶室空間の記録・保存・継承に対し重要な資料となった。更に、この2DCAD図面と元図の天龍寺塔頭真乗院茶室の起こし絵図との比較検証を行い、それぞれの相違点の有無を把握した。その結果、茶室「仰松軒」は、建具の寸法等に関し、違いは見られたものの〈写し〉として、十分評価できるものであった。
研究の背景
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茶道は伝統的芸能の一つに数えられ、特に精神性を重視し、その所作においても日本特有の美が求められる。それはすでに芸術の域にあるとも言え、この茶道のための空間でもある茶室もまた精神性
と美が求められる。 -
安土桃山期から江戸初期・中期にかけて建設された草庵茶室の多くは、国宝あるいは重要文化財に指定され、主に京都を中心に現存しているが、残念ながら九州地方にはほとんど現存しておらず、近代以降建設の茶室が登録・指定有形文化財として見られるのみである注1)。このことは、九州地域における侘び茶の空間(草庵茶室) の普及と継承の有無に疑問符が付くことを示唆するとも考えられるが、一方で当時博多の豪商神屋宗湛は千利休との交流も知られており注2)、九州地域における草庵茶室の普及と継承に関しては、今後より詳細な検証が必要と言える。
研究の目的
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本研究の目的であるが、茶室「仰松軒」に関して3DLS を用いて実測調査を行い、その計測値から2DCAD 図面(平面図、内部展開図)を製作し、〈写し〉の本歌とされる天龍寺塔頭真乗院に建てら
れていた細川三斎好みの起こし絵との比較検証を行い、それぞれの相違点の有無を把握し、今後の茶室空間の保存・継承に貢献する知見を得ることを目的とする。
調査の方法と2DCAD 図面の製作
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茶室「仰松軒」の3DLS 実測調査は、2024年6月10 日に実施した。本研究で用いた3DLS の機材は既往研究6-8) 同様「Leica LTC360注3」であり、同時にこの機材と連携した端末(ipad) アプリ「LeicaCyclone FIELD 360」を用いて計測調査を行った。また3DLSより計測された点群データ注4) を処理するPC ソフトとして「Leica CycloneREGISTER 360」を用いた。この点群処理PC ソフトによる2点間の寸法計測( 図1 参照) 結果よりCAD ソフトVectorworks によって2DCAD図面を製作した。図2、3 には作成した平面図と内部展開図を示す。
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茶室「仰松軒」は、熊本市の立田山麓にある国指定史跡泰勝寺跡内( 立田自然公園) に建つ。先述の通り「仰松軒」は、もとは京都の天龍寺塔頭真乗院に建てられていた細川三斎好みのものを大正11年(1922) にその起こし絵図に基づき復元したとの記録が残る。また更に老朽化により近年(2022) 保存修理工事が完成している。細川三斎は、父の藤孝同様、教養人・茶人として名を知られ利休七哲の一人に数えられる。利休が秀吉から堺へ蟄居を命じられ、淀から船で大坂へ下る利休を見送ったのは、三斎と古田織部だけであったとされる。また、織部は利休の高弟の中でも独特の芸術的な茶道具を製作するなど利休との違いを見せたが、三斎は利休の教えを忠実に守ったとされる。

図2 茶室仰松軒の平面図

図3 茶室仰松軒の内部展開図
〈写し〉に関する既往研究
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西洋(西欧) においては、プラトンがこの世はすべて絶対の存在であるイデアの〈写し〉だと論じ、その後何世紀にも渡って、芸術作品の〈写し〉とは真作の粗悪な写し、また不法な贋作や偽物という否定的な意味合いでしか捉えられてこなかった。しかし19世紀の写真の登場以降、もはや原本(オリジナル) /写し(コピー) という二元論だけで芸術を語ることは不可能となり、写真や映画といった複製芸術によって世界で唯一の存在であるという、かつて芸術作品が帯びてきたアウラが消失したことを告げたW・ベンヤミン14) によって〈写し〉の概念は、多様化し変化してきている。
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日本における〈写し〉の文化は、古来より東アジアの美術・工藝においての伝統として尊重されてきた歴史を持つ。特に日本文化は、中国を中心とする大陸や欧米から外来文化を受入れ、独自の文化に
発展させる模写・模造の文化とされる。 -
茶室建築に関する〈写し〉に関して、元になった茶室を〈本歌〉という。本来〈本歌〉は、和歌をつくるとき典拠にした歌をいうが、和歌では〈写し〉とはいわず〈本歌取り〉という15)。
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本研究のような茶室建築における〈写し〉という行為は、すでにその揺籃期から盛んに行われてきた。『山上宗二記16)』には、紹鴎の好んだ四畳半茶室が当時大いに流行し、これを写した四畳半茶室が数多く建てられた様子が記されている。
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大和17)は、あの利休でさえも紹鴎の〈写し〉を老年に至るまで長く続け、61 歳を過ぎて独創の境地に入り、茶室の縮小化、台目構え、躙り口の創設、囲炉裏の縮小、室床の工夫、茶室周囲の露路の好みなど、現在我々が見る草案茶室の姿を完成したとし、この利休によって精神性の強い侘び茶が完成し、以来〈写し〉という行為には新たな意味が付与されるようになったとしている。それ以前の〈写し〉が先達巧者の単なる模擬であったのに対して、茶匠の精神、美意識の継承という求道的な側面が加わるようになり、そしてこの時期から〈写し〉は、茶室における伝統継承の有効な手法として盛んに行われるようになったとしている。その証として、利休の子孫である千少庵、宗旦は、当時利休の弟子(武将) たちによる書院風の茶の湯全盛のころに、侘び茶の本流を復興対峙することで、自らの位置を明確にしようとし、利休ゆかりの空間を写し、再現することを熱心に進めたことを挙げている。
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現物が失われ記録によってのみ伝えられる茶室を、指図、起こし絵図、寸法書など残された資料によって再現しようとすることもよく行われ、これも〈写し〉とされ、近・現代においては「復原( 復元)」とも言う17)。
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400 年の時を経て当然と言えば当然であるが、現代まで伝えられた古典の名作とされる茶室のうち、建築当初の位置にそのまま残るものはほんの数える程しかない。これは一方で時代の世相を繁栄した
経済状況や、戦争や自然災害などによって存亡の危機にあった名作茶室を、先人たちが移築・保存し、継承してきた賜物であることは疑う余地も無いが、一方でこの〈写し〉の行為は、単にかたちだけの先例の墨守となり、継承すべき精神性から離れ、安易な形の模倣だけに陥る可能性を多分にはらんでいるとも言え、〈写し〉の意義が強く問われるものと考えられる。 -
後藤18) らは、〈写し〉による茶室は、〈直接写し〉と〈復元写し〉といった目的の違いがあるとし、そのため現存する写し茶室は、本歌の構成と異なる場合が多いとしている。その上で、現存する茶室待庵の写し茶室6 例と本歌待庵の特性、構成要素を比較検証し、経済的あるいは施工技術的問題等により再現されず、継承を断念せざるを得ない状況などを報告している。
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また同じく後藤19) らは、〈写し〉茶室における継承と創意に関し、継承という意味では本歌の造形的かたちや大きさ( 寸法)、窓の位置などは大方継承され、現代の茶の考え方に沿った軽微な変更等も見られるとし、使用材料の選定や加工技術の再現に関しては、現代の情勢に合わせた創意も見られるとしている。これら本歌の要因・構成を改変せざるを得ない場合、重要となるのが写しの設計者の本歌に対する姿勢とも言える設計方針の重要性を挙げている。
〈写し〉の視点から見る「仰松軒」の分析
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『茶室おこし絵図集第10 集20)(以下起こし絵20) と記す)』に細川三斎好み天龍寺真乗院茶室の資料が残る。おこし絵図と稲垣栄三氏による解説書が付く。それによれば、真乗院茶室は、楽翁( 松平定信1759-1829) の起絵図の一つに詳しく描かれて残っているとある。その他文政七年洗解庵写の図(十八囲図)など、いくつかの本、巻物にも掲載され、おそらく元治の火災(1864) まで健在であつたらしいとある20)。
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次に写真1 ~ 9 には、本研究にて製作した2DCAD 図面の平面図(図2) に記載した展開方向ごとの壁面の写真を示す。写真1 には、おこし絵図全体の写真を掲載している。
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まず起こし絵20)の解説書には、南に正対する茶室の配置図が掲載されている。実際の実測図( 図2) では、10°のずれがあるものの、ほぼ南面する配置であった。
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また間取りも、図2 にあるように四畳台目注5) で、一畳台目の点前座と三畳の客間が折れ曲がる独特の間取りをしている。起こし絵20)においても同様の間取りの記載が確認できる。更に図2からは、モジュールとして985 ㎜ ( ≒三尺二寸五分) であったことが想定できる。尚、起こし絵20)には、これらの詳細な寸法は見い出せない。
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展開方向A 面の起こし絵図( 写真2) と図2 の展開図Aを比べてみると、空間的な床とこや中柱、袖壁の下方吹抜などに相違点はない。細かなディテール寸法などは、多少の相違が見られる。例えば、写真2では天井高六尺二寸(1879㎜注6)) とあるが、図2 では1910㎜であった。天井廻縁も写真2 ではシイ(椎) 皮付一寸五分(45㎜) との記載があるが、現状の材種は不明であり、図2 ではφ40㎜であった。更に点前座垂れ壁の内法寸法が写真2 では五尺六寸八分(1721㎜) であったが、図2 では1710 ㎜であった。点前座の展開方向A 面に関しては、空間的な構成に相違点は見られず、天井には突上窓もきちんと再現されている。ディテール寸法では、写真8 では腰張高六寸八分(206㎜)とあるが、図2 では274 ㎜であった。
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展開方向B 面の起こし絵図( 写真3) と図2の展開図B を比べてみると、床の墨蹟窓に障子の有無に違いが見られるものの、これは他の写し茶室にも見られるもので、虫の進入を防ぐなど管理上の問題
で追加されたものと考えられ、基本的に本歌の意匠を壊すものでもない。細かなディテール寸法では、写真3 では張付(腰張) 二尺(606㎜) との記載があり、図2 では600 ㎜であった。また、下地窓、竹連子窓の障子内法寸法に関し、写真2 では二尺二寸四分(679㎜ )、二尺四寸(727㎜ ) との記載があるが、図2 では676 ㎜、725 ㎜とほぼ合致しており、施工誤差の範囲内とも考えられる。点前座B 面(写真9) に関しても、空間的な構成に相違点は見られない。ディテール寸法に関しては、写真9 に風炉先窓内法一尺九寸(576㎜) と記載があるが図2 点前座B では560 ㎜であった。 -
展開方向C 面に関しても、空間的な構成に大きな相違点は見られなかったが、二点の相違が見られた。一点目は写真4 竹連子窓向かって左の袖壁に塗増した形跡が残る(写真10 参照) ことである。これは図2においても記載した部分であるが、おそらく竹連子窓の上枠が隅柱まで達していないことによる土壁の強度不足を補うため野の増し塗りかと想像できる。このことを示す資料が見い出せないため想像の域を出ないが、それほど的外れでもないであろう。二点目は、写真5( 右) に建ててある網代戸と障子の段違いである。写真12 に示すよう、土間側から見た場合、障子の高さと網代戸の高さが違い、障子の方が高い。ただし、室内側から見た場合、図3 のC 面にあるように、低い方の障子の鴨居が柱から柱まで通っているため、網代戸と障子は段違いに見えない。このことは、写真5(右) でも確認でき、起こし絵図と実測調査の違いを示す部分である。この仰松軒のように躙り口のない場合の網代戸の高さは、茶室への入室時に頭を少し下げて入るという謙虚さを表す意味で少し低めにすることもあり、その意味では頷けるが、起こし絵20) にその記載はない。ディテール寸法に関しては、写真4 に竹連子窓下の張付(腰張) 二尺二寸一分(670㎜) との記載があるが、図2 では658㎜であった。また写真5 には、台目畳側の網代戸の内法四尺六寸五分(1409㎜) とあり、図2 では1400㎜であった。
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展開方向D面に関して、写真6に障子の内法五尺三寸(1606㎜)と記載があり、図2では1600㎜であった。ただし、この三畳側の入口部に建ててある網代戸と障子( 写真6) は、現状、図2のように段違いになっており、C 面右壁同様、起こし絵20) と異なる点と言える(写真11参照)。ただここでは、網代戸の方が高く障子が低い。これは先のC 面での網代戸の通例からは外れるが、障子と網代戸の引き違い戸した時の右前に網代戸を揃えたかったためかとも推察できる。また、C 面(台目畳側入口) を躙り口風の入り口、D 面(客座三畳入口)を貴人口と格の違いを示したかったものとも想像できるが、これらを示す資料は見い出せていない。また写真7 の給仕口と茶道口の間の壁の腰張高二尺(606㎜) との記載があるが、図2 では267 ㎜であり、大きく数値が異なる。同じく写真7 の給仕口内法三尺七寸五分(1136㎜) との記載があるが、図2 点前座D では1113 ㎜であった。
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このように、内部空間に関する間取りや空間構成に大きな違いは見られなかったものの、土間に面する網代戸と障子の段違いが唯一と言えるような違いであった。ただ、この相違点に関しては、筆者の想像の域を出ないものの〈写し〉茶室における創意とも言える配慮が伺え、〈写し〉茶室の評価を下げるものではないと考えられる。



まとめ
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本研究では、熊本市にある細川三斎好みとされる「仰松軒」に関し、3DLS を用いたの実測調査を実施し、〈写し〉の視点から〈本歌〉とされる天龍寺塔頭真乗院茶室の起こし絵図との比較検証を行った。
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後藤18、19) らによれば、写し茶室で多く再現される構成要素に、平面構成、壁面構成、天井構成及び丸太の使用や土壁施工を挙げ、一方で国宝待庵の写しでさえ、私的茶事利用を想定した場合、機能性を考慮し改変される場合があることを報告している。当然ながら、材料や技法が現在では見い出せないものもあり、完全なる〈写し〉を求めるのも無理があるが、後藤19) らの報告にもあるように、〈写し〉の設計者の〈本歌〉に対する畏敬の念としての姿勢がなにより重要と言えよう。その視点に立ち、今回「仰松軒」の実測調査の結果をもとに製作した2DCAD 図面と〈本歌〉天龍寺塔頭真乗院茶室の起こし絵図との比較検証を行った(表1 参照)。
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このような〈写し〉茶室として表1 を見ると、この「仰松軒」は、平面・壁面等の空間構成に関しては〈本歌〉天龍寺塔頭真乗院茶室に準じており、一部網代戸と障子が段違いになっている点は改変( 創意) が見られるものの、各寸法も概ね〈本歌〉通り再現されていると考えられる。特に起こし絵20)の解説書にもあるように、特徴的なのは仰松軒の間取りの特異性である。広さ四畳台目で三畳に床を附け、その床前畳の横に一畳を連ね、更にその一畳に台目畳を附したものだが、床前の客席と点前を行う台目畳との間が離れ過ぎている。このことは、亭主の点てた茶を客座まで運ばなくてはならず、一般の茶室で通用する作法が成り立たない。これに関し稲垣氏は、客座三畳と台目畳を広間と小間の二様の使い方を可能にするのではないかとの考えを示している。現代の茶道における規格化された所作において、決して機能的と言えないような間取りに関して忠実に〈写し〉、継承したことでの機能性の不備を補う形で、本研究にて明らかになった、土間に面した網代戸の高さの違いによる入口のヒエラルキーを示したのものと理解できる。
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本研究においては、材質の確認、外観、屋根の形状等の検証はできていないため、既往研究17)にもあるよう完璧な「復原(復元)」とまでは言い切れないが、平面構成、壁面構成において、現代の茶道の作法や利便性等を優先し、本歌の理念継承を断念せざるを得ない状況などが複数報告されていることを考えると、この仰松軒の空間構成を誠実に継承し復元した〈写し〉としての姿勢は、十分評価できるものであると考えられる。
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本研究を通し、「仰松軒」の実測調査を行い2DCAD 図面を製作したことで、起こし絵20)の存在はあるものの、詳細な寸法等の記載されたデジタルデータによって、記録・保存できたことは、今後の九州地域における茶室空間の継承・分析にとって重要かつ必要なものであり、本研究の成果の一つと言える。また、この製作された2DCAD図面と起こし絵20)との比較・検証を〈写し〉の視点から行うことで、我が国における茶室空間の継承と創意という意味での〈写し〉茶室の現状の一断面を示せたものと考えられる。
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今後は、図2で製作した実測図面をもとに、茶室を形成する床面積や天井高、床や窓の広さ、柱の数といった主要な構成要素を数量化し、そのデータに関して多変量解析を行うことで、茶室「仰松軒」
の空間構成の特徴を明らかにし、既往の建築史学的分類との比較検証を行う予定である。
