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わかりやすさの時代Ⅱ_本質

前回、〈わかりやすさの時代Ⅰ_具体と抽象〉では、今の時代「わかりやすさ」が求められていることを語ったが、この「わかりやすさ」に少し危機感がある。


当然ながら私たちが普段生活をしている現在の様々な事象は、目に見えるものだけでなく、むしろ目に見えないものの方が多い。まして私たち人間は、心理学における「確証バイアス」と言われる、自分の思い込みや偏った考え方に合致する情報だけを集める習性がある。カエサルが言ったとされる「人は見たいものしか見ない」という習性だ。

人間本来の習性としての「確証バイアル」に加え、「わかりやすさ(大衆化)」が求められる現代人は、「本質」を見なくなった。見なくてもよくなったといった方が正確かもしれない(本質など知らなくても生きていける時代になった?)。


「本質」。もの・ことの根本を指すが、現代では、この「本質=根本」を知らなくても本当に幸せに生きていけるのか?。


ゲームなどのバーチャルな世界。リセットボタン一つで、やり直しがきく。

一見、現代社会を凌駕したかのような世界観を見せるゲームの世界。だがどれほど複雑に組み上げようとも、神でもない人間がつくるもの。現実世界の不思議さ、理不尽さ、すばらしさ、人間がつくり出す現実社会の怖さややさしさの比ではあるまい。


「本質=根本」を知らなくても本当に幸せに生きていけるのか?。


生きては行けるかもしれないが、幸せに離れない気がする。なぜなら、この世は見えないものわかりにくいものだらけだ。

そもそもまだ人間がわからない。様々な科学技術が発展し、様々な知見が報告されているが、それらは人間のわずかな断片を見たに過ぎない。わかったつもりでいるが、解らないものが多すぎる。

「わかりやすさ」でわかったつもりでいるが、何も見えていない。


何も見えない、「本質が見えない」とどうなるか。


それはすなわち、この世界の多くを占める「見えないもの」「わかりにくいもの」に翻弄されることになる。

現代人はこれを「アクシデント」や「不運」と嘆き、忌み嫌い、目を背ける。「わかりやすい」あるいは「わかっている」説明のつくことだけを見て、それを理解しようとする。

光の当たる部分だけで生きいけると思っているのか。光が当たれば陰ができるのは自然之理なのに。



先輩面して面痒いが・・・未来を担う若者に。  


大きな流れに抗う勇気を持て。


本質を見る目を養え。


未来はあなたたちのものだ。

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