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日本美
近代以前の日本に、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての美学は無かった。
ただし、近代以前の日本にも美的概念は存在し、「わびさび」「幽玄」「もののあわれ」「いき」など見出せるが、残念ながらこれらが、学術的主題となることはほとんどなく、本居宣長による「もののあわれ」や九鬼周造による「いき」に関する考察などがわずかに見出せるのみで、現代においても西洋のような総合的に美的概念の体系化はなされていない。
我が国は、明治の開国以降、国策として西洋化を進め、あらゆる分野での国際化、ボーダーレス化を目指した結果、21 世紀の今日では、日本の特徴的文化や価値観は忘れ去られつつあるように見える。先述の通り確立された体系としての〈日本美〉の学を持たない日本人にとって、今日語られる〈美〉の多くは〈西洋美(西欧美)〉を指し、日本美の概念としての「わびさび」「幽玄」などは、俳諧や能楽といった伝統芸能などの限られた分野でのみ継承され、一般の日本人にとっては、もはや忘れ去られようとしている。
今日における建築的テーマとして、“地域性”や“歴史性”などが重要視されている。
普遍性・国際性を謳った近代建築はもはや過去のものとなり、21 世紀の現代では、その地域ならではの風土や文化・思想にあった美的空間を創造する必要がある。
そのためには、西洋の美と異なる日本の特徴的な美を理解・把握しなければならない
Survey
広島市環境局中工場
2019.10
場所 :広島市中区
設計者:谷口吉生








No beauty,no architecture
念願の谷口作品「広島市環境局中工場」である。
広島には過去、学会などで数度、訪れる機会はあったが、なかなか都合が合わず、今回念願の視察調査である。あいにく空模様は、日差しがさしたかと思えば、ザーという通り雨を何度も繰り返す、気まぐれな天気。バス停へ降り立つと、堂々とした姿を忽然と現し、やはり心が弾む。
この「広島市環境局中工場」は、谷口吉生氏によって設計されたゴミ処理施設であるが、まるで「美術館のようなゴミ処理施設」との異名を持つ。
谷口氏によって、「ゴミ処理施設」の汚い・くさいというイメージを払しょくされ、「エコリアム」という機能に変換されたこの建築物は、これまでのゴミ処理施設のイメージを一変させてしまった。
1994年日本建築学会作品賞を受賞したトム・ヘネガン設計の「熊本県草地農産研究所」を思い起こさせる。
ジョン・ラスキンが『建築の七燈』で語った、『それはありきたりの形で飾られるのでなく、自然からひきだされた文様で飾られるべきである』という“美の燈”にもあるよう、芸術性や審美性のない建築は「Building」であり、決して「Architecture」たり得ない。この意味で言えば、これまで「Building」として扱われてきた「ゴミ処理施設」を「Architecture」にまで昇華させたものといえよう。
谷口氏いわく
『他の施設を見てみると、外観をいろいろなデザインで工夫をして、ゴミ焼却施設には見えないように隠している建築が多くありました。しかし私はこれも現代の都市に必要な施設のひとつとして、外部は意図的に工場をそのまま表現し、内部に何か公共的な空間をつくり、都市施設としての価値を高めようと思いました。』
※「新建築」2004年7月号pp37
まさに思いが形に現れ、しかも美術館と見まごうばかりの美的価値を付加された空間となっている。
また、同じく
『平和記念公園には丹下健三先生の「広島ピースセンター」がありますが、そこから伸びる吉島通りを海の方に延長したところにこの敷地があります。つまり広島の重要な都市軸に乗っている場所で、都市から海へ続く景観の境に敷地があります。そこで私は吉島通りを延長して、海へ通り抜ける空間を敷地に作ろうと思いました。このような発想は、設計のかなり初期の段階から考えていたものでした。』
※「新建築」2004年7月号pp37
ここで語られた軸線は、内部を穿たれたキューブを抜け、エコリアムと名付けられた内部空間につながり、さらに海へと抜ける。この軸線に沿って配置された二個のキューブが、内部と外部を分ける結界のごとく、まるで日本建築における寺社境内にみられる鳥居を想起させ、「ゴミ処理施設」という穢れにも似たを不安を一蹴してくれる。この結界を抜けると内部は、映画で見た未来都市のごとく美しくきらびやかで、これまでのゴミ処理施設とは別物であり、美術館のようなゴミ処理施設の異名は伊達ではない。
全く新たなビルディングタイプの誕生を思わせる。
さすが谷口先生。
とても、とても美しい。
2019.09
豊田市美術館
場所 :愛知県豊田市
設計者:谷口吉生








何も足せない、何も引けない
ここを訪れるのは、約15年ぶり。
かつて挙母城(七州城)のあった高台の一角に立つロケーションのため、歩を進めるにつれ心臓の鼓動が早くなっているが、一方で久々に会う友人に再会するかの如く、心臓の高鳴りが隠せない。
谷口吉生氏設計の豊田美術館は、1995年(平成7年)に開館した。ランドスケープデザインは幾何学的表現に特徴をもつピーター・ウォーカー 。
2階部分に位置する大池の対岸からのファサードは、私が最も美しいと思う建築の外観の一つで、緑色のスレートと合わせガラスのテクスチャーの対比。
単純な矩形の形態の建物と水盤を区切る水平に伸びる庇が、谷口氏のデザインを象徴し、水面に映る全景と合わせ、「何も足せない、何も引けない」絶妙のファサードとなっており、ほれぼれしてしまう。そのせいか外観だけで百枚ほどの写真を撮ってしまった。
谷口氏の建築には、「水」がよく用いられているが、谷口氏自身『水は決定的な水平面をつくるため、建築の前に置くと建築が落ち着く』といっている。
東京国立博物館 法隆寺宝物館、京都国立博物館 平成知新館、鈴木大拙館などにも水盤が見られるが、やはりここの水盤は特別で、空や周辺環境の緑と一体化した空間は、非日常的感覚と同時に落ち着いた雰囲気を呼び起こす。
内部空間には、ジョセフ・コスース『分類学(応用) No.3』、ジェニー・ホルツァー『豊田市美術館のためのインスタレーション』が見られが、これらにもましてディテールの美しさが際立つ。
階段、開口部、隠された巾木など、建築に興味がない人たちには感じられないかもしれないが、寡黙なこれらのデザインは、それゆえに空間の品格として芳醇な香りを醸し出している。
谷口氏は最後のモダニストとも呼ばれている。確かに谷口氏の建築は、一見するとモダニズム建築を隠喩した「禁欲的な四角い箱」にも見えるかもしれない。しかし決定的に違う点は、ディテールの繊細さに加えて、日本建築の特徴とされる水平性の強調や、格子や軒裏に見られる直線の連続性など、日本美の要素が寡黙に埋め込まれ、それらが空間の品位を醸し出している点であろう。
今回の視察では、あいちトリエンナーレ2019の会場となっていたことから、多くの来訪客があり、この芳醇な香りを感じ取れる空間が、かき乱された感があったのは残念である。
経済性や運営面などを考えれば、より多くの人々に訪れてもらい、空間や美術品を体験してもらいたいであろうが、個人的意見として、芸術や建築(空間)を静かに体感したいという思いが強く、あまりに商業化された催事や展示には、大声で騒ぎ、鑑賞者ではなくマナーやモラルを失くした観光客であふれていた。
芸術やアートが商業化し、経済という俎上に上げられた中での、現在の建築の造り方は、美術館を商業施設にしてしまった感がある。これらを否定するものではないが、別のビルディングタイプと考えるべきかもしれない。
美術館というビルディングタイプの定義にもよるが、文化や思想を培う空間が美術館だとするならば、谷口氏の創る美術館は、建築の底力によって、美術や芸術を味わえる空間を創り続けている感じがした。このような落ち着き、癒される、思考や精神、五感に働きかける空間が少なくなってきているのはさみしい。
空間の形態としての美しさもさることながら、空間の平面的なゾーニングや立体的な空間感、そこに感じられる緊張感と解放感。なんと心地よい空間であろう。
ちなみに敷地内には、同じく立口氏設計の茶室「童子苑」がある。かつてこの辺を童子山といっていたことによる。あまり知られてないようであるが、こちらも寡黙ながら品格を感じさせる、心地よい和の空間である。
吉岡徳仁展
場所 :佐賀県立美術館
2015.07





インスタレーション
吉岡徳仁氏の展覧会があると聞き、佐賀県立美術館へ。
お隣の佐賀県立博物館の設計は、高橋一(第一工房)+内田祥哉。外観は雁行するブロックをピロティで持ち上げられており、十字形のプレキャスト・コンクリート部材を連結することによりつくられたもので、プレグリッド・システムと呼ばれる構造方式。
吉岡徳仁氏は、桑沢デザイン研究所を卒業後、倉俣史朗氏と三宅一生氏のもとでデザインを学んだそうだ。吉岡氏の作品では、第54回 ヴェネツィア ビエンナーレ国際美術展に出展された「ガラスの茶室 - 光庵」を見るために、天台宗青蓮院門跡境内にも出かけたことがある。この報告は後述するとして。
近年では、芸術家と呼ばれる(建築の専門家ではない)人たちが、建築にたずさわる者たちを驚かし、嘲笑うかのような空間創造を手掛けている。「海景」で知られる写真家の杉本博司氏もその一人。杉本氏の作品には、香川県の直島の護王神社や、小田原市江之浦の江之浦測候所など、ミニマルデザインの探究者のように見える。
「インスタレーション」とは据え付け、取付け、設置の意味から転じて、展示空間を含めて作品とみなす手法を指す。彫刻の延長として捉えられたり、音や光といった物体に依拠しない素材を活かした作品や、観客を内部に取り込むタイプの作品などに適用される。特定の場所と密接に結びつくこと(サイト・スペシフィック)や、多くは短期間しか存在しないなどの特徴も付随する(@成相肇)。
インスタレーションでは空間全体が作品になっていることから、その作品に全身を囲まれて空間全体を「体験」することができる。作品を見る人が、その空間を体験(見たり、聞いたり、感じたり、考えたり)する方法をどのように変化させるかを要点とする芸術手法でもあり、まさに今日の建築空間を考える上での一つの手法と言える。
会場には、200万本を超える透明なストローによる竜巻のようなインスタレーション「TORNADO(トルネード) 」は、透明なストローがまるで竜巻のように空間全体を覆い尽くし、日頃よく目にするストローという小さなものをかき集め、竜巻のように積み上げただけのミニマルデザインで、体験する人々を異次元の世界に誘うデザイン力は、さすがである。この「TORNADO(トルネード) 」は、マイアミでたびたび発生する大規模なトルネードやハリケーンといった自然現象を表現したもので、雲や雪、霧のその粒子が何千、何万と重なり合う事によって白くなり奥行きが生まれる様に、単体では透明なストローを使って、同じような自然現象を創造したものである。
この空間内には、吉岡氏の代表作のガラスのベンチ「Water Block」(2002)、「Honey-pop – 紙の椅子」(2001)、「VENUS – 自然結晶の椅子」(2007)、などが展示され、アクセントとなっている。





インフィニティ
「インフィニティ」とは「無限であること」「無限な空間・時間」を意味し、近年高級ホテルなどのプールや露天風呂などでも用いられている。
瑠璃光院は、京都市左京区上高野にある寺院で、、もともとは別荘として造営されたものである。瑠璃光院の美しい緑の絶景は、春の特別拝観が開催される約2ヶ月間ほどしか見ることができない。
また、この周辺を八瀬と呼ぶが、八瀬とは古来矢背とも記され、それは戦乱の世、背中に矢傷を負われた天武天皇がここで傷を癒された事に由来するという。
現在みられる建物と庭園は、大正末期から昭和にかけて造営されたもので、数寄屋造りの建物は数寄屋大工で著名な中村外二が手掛け、自然を借景とした庭園は佐野藤右衛門一統によるものとされる。
春は緑、秋は紅葉、森の中に沈むように作られた院は、”瑠璃の庭”、”臥龍の庭”、”山露路の庭”の3つの庭がある。
”瑠璃の庭”は玄関から二階に上がるとすぐに目の前に広がっており、そこでは写経を行ったり、一階では苔むした庭を愉しむ事が出来る。
この”瑠璃の庭”は、瑠璃色に輝く浄土の世界を表わした瑠璃光院の主庭であり、二階からは、庭を俯瞰してながめたり、磨き上げられた床や座卓に新緑が反射し、幻想的な美しさは、時と場所を見失うような錯覚を呼び起こす。
”臥龍の庭”は天に上る龍の姿を映したものと言われ、茶庵の前に堂々と広がり、龍に例えられるほど力強い緑を見る事が出来る。
”山露路の庭”は山門から玄関に続く道沿いの庭で、春は花馬酔木の花が溢れており、ここからは十三重の石塔や茶庵や玄関を眺め見る事が出来、上に続く二つの庭へ誘うかのような佇まいを見せている。
ここに設えられた自然(庭園)は、人が造り出したものであるが、日本人の美意識や感性は、このように人の手を加え毎日整備しているにもかかわらず、あたかも自然のままであるかのごとく見せているところに、特徴があり、後世に継承すべき素晴らしき美意識であろう。
バブル期には、スクラップアンドビルドとして批判を集めた我が国の建築の在り方も、古の日本人の知恵や美意識は、とうの昔から環境共生を実践し、世界に誇れる建築空間を創造してきていることを実感させられる。日本建築の日本美の奥深さや底力を感じさせる空間である。
これまで、寺院や他の日本建築において、「縁側」の中間領域性やあいまいさが言われ、いくつかの縁側空間を体験し、私なりに縁側の中間領域性を考えてきたが、この瑠璃光院の中間領域はまた特別で、周りの「自然を切り取る」のではなく、周りの庭園の新緑を床や座卓のリフレクションによって「取り込む」ということがなされている。このことが、唯一無二とも言える空間を創り出し、まるで蜃気楼を見ているような眩暈を覚え、時間が止まった感覚にとらわれる不思議な空間であり、内部空間と外部空間の境が見いだせないまさにインフィニティな空間体験であった。
京都国立博物館 平成知新館
場所 :京都市東山区
設計者:谷口吉生
2019.03





神は細部に宿る
近代建築における三大巨匠のひとり、ミース・ファンデル・ローエが用いたことで有名であるが、原文は「Der liebe gott steckt im detail (独語)」で英訳として「「God is in the detail」として知られている。また、ドイツ美術史家のアビー・ヴァールブルクもこの言葉を広めた一人と言われる。
設計者の谷口吉生氏は、この建物のデザインにおいて最も重要視したものに、建物の“プロポーション”“素材”“自然光”を挙げたと言われている、それにも増して、 いつもながら谷口氏のディテールの美しさにはため息が出る。
これまで、谷口氏設計の豊田美術館、東京国立博物館 法隆寺宝物館、鈴木大拙館、 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、東山魁夷せとうち美術館などを見てきたが、どれも寡黙なデザインでありながら饒舌な表現を見せ、一見見落としそうな細部にわたる繊細なディテールが、空間の品格を生み、唯一無二の感覚を与える。まさに”いぶし銀”に鈍く光る、日本刀の美に通ずるものを感じるのは私だけではないはず。ちなみに、日本刀は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたらしいが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣のことを指す。
近代においてミースが目指した装飾を廃したデザインは、ミニマリズムと呼ばれ、その後、多くの”偽ミース”を生むことになる。ミースは古典的装飾を廃し、細部にわたるディテールを何度も検討し、接合部のデザインやサッシと枠、枠と方立てなどの見え方を如何に美しく繊細に見せるかということを追求した。しかし”偽ミース”と呼ばれる作品には、多くの検討や探求心は見いだせず、単にシンプルで省略したデザインがなされ、谷口氏のデザインに見られるような空間の品格が感じられない。
かつてミースが言った『Less is more』は、まさにこのことを指し、多くの足し算(検討)を行ったうえでの引き算が行われ、その結果、これ以上何も足せない、何も引けないといったデザインを指すものであろう。
谷口吉生氏の父、谷口吉郎氏も有名な建築家である。東宮御所、ホテルオークラに代表されるように、伝統的な木造の文化に根差した、清らかでありつつも、どこか華麗な抒情性を湛える静的な建築を目指した。まさに父子鷹。DNAは確かに受け継がれている。
明月院 方丈
場所:神奈川県鎌倉市
設計者:不詳
2019.01





不立文字
明月院は、青を基調としたアジサイの名所で知られ、「紫陽花寺」と呼ばれている。 このアジサイは、第二次世界大戦後の物資不足の中、参道を整備する杭が足らず、代わりにアジサイを植えたことに由来する。残念ながら、訪れたのは冬場で、名物の紫陽花は見られなかったが、その分、観光客も少なく、ゆっくりと空間を堪能できた。
境内には、元寇時の執権、北条時宗の父、北条時頼をまつる廟や墓があり、国の史跡に指定されている。
明月院本堂(方丈)にある丸窓は、「悟りの窓」と呼ばれ、季節にごとに違った風景を切り取る。同様の借景を利用した円い窓といえば京都にある源光庵の「悟りの窓」が有名であるが、この明月院の丸窓は少し小さくて、窓までの距離が遠い。
室内の両サイドには赤い絨毯が敷かれ、空間の奥行きを強調し、またこの反射光で室内はほのかに赤みを帯びて見える。そして丸窓の手前に置かれた茶器は、この室内の空間の空虚感を引き締め、丸窓からの見える借景を邪魔せず、しかも控えめに風景との対比を示している。丸窓に切り取られた風景ばかりが注目されがちだが、この距離感や室内構成、窓の位置や大きさなど絶妙とも言える空間構成こそが、今日ではあちこちで見られる単なる丸い窓が、そこに対峙する人間の心の奥底を揺さぶる空間を作り出しているのだろう。
決して饒舌ではなく、寡黙ながら空間の品格と深遠さを感じさせる空間である。
鎌倉五山が「建長寺」「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」の5つであることは広く知られている。この鎌倉五山は、臨済宗の寺院を格付けをする制度として、当時の中国の五山の制に倣って導入したのが始まりとされ、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上」という最高寺格として南禅寺が置かれた。この明月院は、鎌倉五山に次ぐ寺格の関東十刹のの第一位でもあった禅興寺の塔頭であったが、本体の禅興寺は明治はじめに廃絶し、明月院のみが残っている。
一般に禅寺と呼ばれるものは、禅宗のお寺を指し、宗派として曹洞宗、臨済宗、黄檗宗などが挙げられる。
鎌倉五山に次ぐ寺格の関東十刹第一位の禅興寺の塔頭であった明月院も、当然ながら禅寺として、禅の思想を継承し、枯山水の庭園や悟りの窓などにその思想を感じさせる。
禅の根本思想として「不立文字」というものがある。悟りの境地は文字で表現できないということを意味する。禅定(精神を集中し、寂静の心境に達すること)という実験で得られた経験(体験)は文字で表現できないと言うものである 。「言語道断(仏語。奥深い真理は言葉で表現できないこと。)」にも通ずる。
この「不立文字」という禅の思想は、建築美にも言え、バーチャルやメディアがどれだけリアリティがあろうとも、実体験のみでしか得られない、感動や心震わす瞬間は伝えられないし、感じとることは難しい。
現代人は、インターネットという仮想空間を創造し、一見すると素晴らしい科学技術の恩恵を手にしたように見えるが、その箱はある意味、パンドラの箱だったのではなかろうかとも思う。この箱は、人間の持つ感性や判断力を麻痺させ、判断力や嗜好までもこの箱に任せるようになってしまった。まるでロボットであるかのように。一刻も早くこの箱のふたを閉じないと、最後の「希望」まで見失ってしまいそうである。
龍安寺 石庭
場所:京都市右京区
設計者:不詳
2018.08





Less is more
近代建築における三大巨匠として名高いミース・ファン・デル・ローエが提唱した 「Less is more (より少ないことは、より豊かなこと)」。
ミースの言葉として他に 「God is in the detail(神は細部に宿る)」などが有名ですが、この龍安寺の石庭はミースより約500年前の室町時代に作られたとされ、その様はまさに「Less is more 」の空間といえます。
この龍安寺は、応仁の乱の東軍の総大将であった細川勝元が1450(宝徳2)年に創建した禅宗寺院とされ、その方丈の前面に設けられた石庭は、白砂を敷き、大小十五個の石を五群に分けて配置した、百坪足らずの空間です。
この石庭は、禅の境地を表現しているとされ、現在でも多くの謎に包まれています。その中でも以下の点に関して様々な憶測や推理が繰り広げられています。
-
作者は誰なのか。
-
何を「テーマ」に設計されたのか。
-
どのような構図(美的秩序)に基づいたものなのか。
古来より、多くの識者が推理を重ね、「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」「心の字の庭」「扇の庭」「星座カシオペヤの庭」「五山の庭」「黄金比の庭」を初めとして、50を超える提案がなされてきました。
この龍安寺石庭は、正式には「方丈庭園」と言い、方丈の広縁に腰を降ろして眺める石庭の広さは東西の幅が25メートル、奥行きが10メートルの長方形で、その面積は約75坪。畳に換算すると約150畳程の広さになります。そこに敷き詰められた白砂には、あたかも大海がうねるかのような波模様の筋目がつけられ、そこに15個の石が置かれています。
この15個の石は、方丈のある一点を除いて、一度に15個すべての石を見ることができない配置になっているとされ、実際いろんな角度から石庭を見ましたが、なかなか15個全部を見出すことはできませんでした。しかし幸運なことに偶然、左の写真にある方丈の縁側の隅っこでやっと見出すことができました。
ここを訪れる観光客の半数以上は、海外の観光客のようで、一定時間瞑想や沈黙の中で、何かを感じ取っているようでした。
21世紀の今日では、このような石庭や茶室空間のような、日本独自空間に関する美的感覚を、外国人の方々が興味を示し、われわれ日本人の多くが、古臭いや何かよくわからないといった風潮が感じられ、少し寂しい気がします。私が一番興味があるのが、「どのような構図(美的秩序)に基づいたものなのか。」ということです。
そこで、この龍安寺石庭に関して、今後研究を進めていきたいと考えています。調査結果等が明らかになった時には、ここで発表させていただきます。
鈴木大拙館
場所:石川県金沢市
設計者:谷口吉生
2017.05






明鏡止水
この「鈴木大拙館」は、建築家の谷口吉生氏の設計によるものです。
谷口吉生氏は、あまりメディアに出ることがなく、安藤忠雄氏や隈研吾氏みたいなメディアの露出はほとんどありませんが、私が最も好きな建築家です。
「土門 拳記念館」「東山魁夷館」「酒田市国体記念体育館」「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」「豊田市美術館」「つくばカピオ」「東京国立博物館 法隆寺宝物館」「東山魁夷せとうち美術館」「MoMA(ニューヨーク 近代美術館)新館」「京都国立博物館 平成知新館」「GINZA SIX」など、洗練されたデザインが特徴です。
父はモダニズムの建築家、谷口吉郎氏。東宮御所、帝国劇場の設計者としても知られる昭和期の建築家です。吉生氏は、丹下健三氏に師事し、最後のモダニストとも言われ、美術館建築など「美」や「品格」を必要とする建物を建てさせたら右に出る者はいないといわれる人です。ご存知のように、丹下健三氏は、昭和を代表する日本の建築家で、「世界の丹下」と呼ばれ、日本人建築家として最も早い時期に国外でも活躍し、大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトなどを手がけました。この丹下氏に師事した建築家としては、磯崎新氏、黒川紀章氏、槇文彦氏など、昭和を代表する建築家たちが丹下氏の教えを受けています。
谷口吉生氏は、最後のモダニストと呼ばれていながら、近代建築におけるモダニズムとは少し違います。近代建築に多く見られたコルビジェの「近代建築の5原則」が、見られません。5原則とは「ピロティ」「屋上庭園」「自由な平面」「水平連続窓」「自由な立面」で、この「近代建築の5原則」を具現化したものが有名な“サヴォア邸”です。
谷口吉生氏のデザインに見られるのは、近代建築に多く見られた幾何学的であり、建築を四角く箱型にフレームする門構えのデザインを多用していますが、それによって自然を切り取り、更に空間を動線に沿って展開するシークエンスとして捉えるデザイン手法は、明快で美しく、品性を感じます。また、外観はあくまで控えめで、開口部は主張せず、外壁も寡黙なまでに整然と、しかも堂々とした印象を醸し出すデザイン性は、モダニストとして、装飾を一切排し、むしろそぎ落とした感のある鋭さは、ため息が出るほどです。
機能主義の名のもとに、特にバブル期以降、建築は投機の対象となり、巷には日用品と同じような即物的原理がはびこり、多くの美しくない建築が生み出されました。その中で、この谷口氏の作品は、唯一無二と言えるほどの輝きと芸術性を示していることに、驚きを隠せません。
この「鈴木大拙館」は、「玄関棟」「展示棟」「思索空間棟」を回廊で結ぶとともに、「 玄関の庭」「水鏡の庭」「露地の庭」によって構成されています。
「水鏡の庭」に浮いているように佇んでいる「思索空間棟」は、まるで平等院鳳凰堂の写しのごとく、見る者の心を魅了し、ため息が出るような美を演出しています。
谷口氏の作品には、水盤が多く取り入れられ、建物を含めたモダンで清潔感のあるランドスケープにも特徴があります。そこは雑音の無い、静謐で身の引き締まるような、まるで別世界に紛れ込んだような錯覚さえ覚え、それでいて品格を感じさせるものです。
流店(岡山後楽園)
場所:岡山市北区
設計者:津田永忠
2016.07






融通無碍
日本三庭園(他に水戸偕楽園、金沢兼六園)の一つ、岡山後楽園にある流店。 岡山藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じて1687年に着工、1700年には一応の完成を見たという回遊式庭園。この津田永忠は、現存する庶民を対象とした学校建築物で世界最古のものと言われている「閑谷学校」を設計した人物としても知らます。
永忠は、岡山藩士の三男として生まれ、25歳で藩政の最高評議機関である評定所に列座するような、岡山藩きっての英才であったとされます。1667年岡山藩主池田宗家一族の墓所造営の総奉行に任命され、これが土木事業の最初の仕事とされます。1670年には、閑谷学校建設を任されるなど藩の基盤整備に尽力した人物です。
この流店は、大きさが桁行四間奥行三間で、屋根が寄棟造りの柿葺による木造二階建ての建物です。殿様の休息所として、壁や扉の無い四方八方どこからでも出入り可能な開放感あふれる空間です。板敷きの床に棹縁天井、そして細い角柱が並ぶだけで2階へ上がる階段もありません。ただし、天井に梯子を取り付ける穴を設け、通常は、視界の妨げとなるものを極力なくしたいという、設計者の徹底した意図がくみ取れます。その意思は、構造耐力的壁や筋交いを無くし、細い柱のみで構成された空間は、開放感と建物内に引き入れた水によって、唯一無二とも言える空間を創造しており非常にシンプルで、美しく、気持ちのいい空間となっています。
園内には、茶室や数寄屋建築が色々と造られており、「茂松庵」「廉池軒」「島茶屋」「茶祖堂」等の茶室が点在していますが、これらの茶室はどれも草庵風の造りなのに対して、この流店は、ただ一つ傾向がすこし他とは異なり、遊び後ごろにあふれた空間が創造されています。
この流店の最大の特徴は、なんといっても建物の内部に水路を引き入れていることです。園内を緩やかに蛇行する水路がこの流店の手前で分岐し、一本が流店の内部に入りもう一つがその畔を流れて、内部を流れた水路とまた合流しています。つまりこの建物は川の岸辺と中州の間に架けられており、夏の川遊びをしているような感覚にとらわれます。流れの中に黒・緑・赤紫色など6つの美しい石を一列に配されており、京都加茂川から取り寄せたものと言われています。この石の配置も、龍安寺の石庭を彷彿とさせます。
以前、知人から『岡山は、災害が少ない』ということを聞いた覚えがあります。 南風は九州と四国山地が防いでくれ、北風は中国山地が防いでくれるというのです。過去のデータを見ても台風の上陸や接近が少なく、直撃の場合でも陸路の通過で水蒸気が供給できず、勢力が大幅に衰えていることが多いようです。また、地震に関しても、岡山県内にある地震断層は、北東部から兵庫県にかけて分布する山崎断層帯のみで、30年以内にM7.3〜7.7程度の地震が発生する確率は、0.06%〜1%程度とされています。また、日本には110の活火山があると言われていますが、中国、四国地方にはほとんどありません。 岡山から最も近い火山は島根県の三瓶山で、岡山市中心部までの直線距離は約130キロメートルです。火山としては活動度が低いランクCに分類されており、現時点では監視・観測体制の充実が必要な火山(47火山)にも含まれていません。
このような地域性が、現在の耐震性から見れば危うく見える開放的な空間創造に繋がったであろうことは、想像に難くありません。その意味では、ここにしかできなかった建物かもしれません。
追記:日本建築とモダニズム建築
先の大戦後、日本の伝統建築(伊勢神宮や桂離宮などの数寄屋建築)と西洋の近代建築(モダニズム建築)の近親性が論じられたことがありました。一つは建築の構法として、近代以前の西洋建築の一般的な構法として、煉瓦や石を積み上げる積層構造をとっていましたが、日本における柱と梁で構成される日本の伝統的建築は、モダニズム建築を先取りしたものであるというものと、もう一つは装飾に関しても、伊勢神宮や桂離宮の「何一つ足せない、何一つ引けない」ような、シンプルかつ美の境地を体現するかのような日本建築のデザイン性が、ギリシア・ローマの古典的建築に見られる装飾やオーダーをなぞることが建築美であった近代以前の西洋建築から、近代以降の過去の装飾や様式を否定したモダニズム建築へ移り変わる時期に、西洋の人々にとって、日本建築の先見性と位置付けられたものと言えます。
その意味でこの流店は、モダニズム建築的な空間構成かもしれませんが、隠された細やかなディテールや考え抜かれた配置や設えをさりげなく内包する日本的美意識の高さを感じさせ、日本建築の奥深さを体感できる建築でした。
2015.08
有楽苑 如庵
(国宝茶室)
場所:愛知県犬山市
設計者:織田有楽斎(如庵)





桃李不言 下自成蹊
如庵(国宝茶室)は、1618年、織田有楽斎(織田信長の弟)によって、京都・建仁寺の塔頭・正伝院が再興された際に建造されました。長益は、信長と年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていません。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功績により家康より大和国内で3万2,000石を与えられます。しかし、関ヶ原の戦い以降も、豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐したとされ、大坂冬の陣の際には大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担ったとされます。そして大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と豊臣家から離れることになります。退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きたとされる人物です。
この如庵は、創建から明治維新に至るまでの二百数十年間、正伝院所有の茶室として維持されましたが、その後は転々と移築が繰り返される数奇な運命をたどっていくことになります。
1873年京都府は窮民産業所を設立するため、正伝院の地を府に引き渡すことを命じ、それに伴い如庵とその付属施設は売却の対象となりました。一時期は京都市祇園町の有志らが所有者となり、「有楽館」と名付けて保存公開されていましたが、やがて維持運営が困難となり、1908年に再び全館売却を余儀なくされ、東京の三井総領家(北家)に移築され、1936年には、重要文化財(旧国宝)に指定されました。1938年になると、戦争の心配から、三井高棟(三井総領家(北家)の第10代当主)によって神奈川県中郡大磯の城山荘に移築されました。そして1970年には、城山荘とともに如庵は三井家の手を離れ、名古屋鉄道の所有となります。更に1972年には、名古屋鉄道によって堀口捨己の指揮の下で現在地に移築ました。
現在、犬山城の東、名鉄犬山ホテル敷地内にあるこの有楽苑には、如庵の他、旧正伝院書院(重要文化財)、古図により復元された元庵(織田有楽斎作茶室:有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで造っており、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されています。)など、静かなたたずまいをみせています。
この如庵は、柿葺(こけらぶき)入母屋風の妻を正面に向け、千利休の待庵(国宝茶室)とも違った瀟洒な構えの外観に、二畳半台目(畳二畳と半畳一畳と台目畳一畳で構成された茶室)で、床脇にウロコ板を入れ斜めの壁を作っているところから「筋違いの囲」といわれています。また古暦を腰貼りにした「暦貼り」、竹を詰め打ちにした「有楽窓」、躙口(にじりぐち)の位置など独創的な工夫がこらされています。
有楽苑には、国宝の茶室如庵があるばかりでなく、数奇屋建築の権威・堀口捨巳の指導 による、露地、書院なども、建仁寺の塔頭時代の状況に再現されていて周辺の環境が 整備されており、日本美の完成形を思わせます。
「利休十哲」に名を連ねながらも、『二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり』としていた有楽斎。内覧会の席で数名が着座しても、窮屈な感じがなく、むしろ限定された空間において、広さを感じることができました。
久しぶりに純粋に建築・空間で感動しました。
庭園、露地、建築を含むこのすべての空間が、あたかも自然に発生したかの如く、ごく自然にさりげなく設えられ、そこには計算され尽くした人智などおくびにも出さず、古の日本人の持つ美意識がまさにこの空間で体現されたことに、ただただ感動し心震わせる、非常にすばらしい美的空間体験となりました。
追記:『桃李不言 下自成蹊』
建築の教育として、主に西洋の近代建築を中心に学び、鉄やガラスの四角く白い箱型の建築に、ある意味あこがれを持っていた我々の世代からすると、日本建築は、古臭く、面倒くさいといった風潮が当時あったのかもしれません。
今日、「環境共生」や「地球にやさしい」といったキーワードが建築の分野でも多く見られる中、自然に対するスタンスとして、西洋におけるある意味自然を力でねじ伏せようとでもするかのような幾何学的形態の庭園や建築に対し、日本人は自然の怖さや無秩序さを理解した上で、あたかも手付かずの自然であるかの如き空間創造を成し遂げ、「さりげなさ」や、「つつましさ」といった、もの語らぬ細かなところまで考え尽くされたものを、あえてそれを隠すかのような設えが、その空間の品格となり、まさにこのような空間表現が、『桃李不言 下自成蹊』と言える、日本人の美意識の神髄と言えるものを感じました。